考える要領 (その二)使い分け

使い分け

それだから日本というのは自然が温暖だから、砂漠のように厳しくないでしょう。温暖地方だから。人間の心も穏やか、温暖なわけです。激しくない。例えばスペインなんかでも、あの踊りを見ると分かる。非常に激しい踊りです。いわゆる情熱的ですね。だからスペイン人は皆情熱的な人間であると思つているだけ、考えたんじゃない。そういうふうに私も思っていた。所がスペインに行って来た人の話を聞くと、それはスペインの南の方の人であって、北の方の人は穏やかというかそんなに激しくないですよとこう言っていた。私達はよく知らなかっただけ。知らないでスペインは情熱的であるなんて言っていたら、それは考えたことにならない。思っただけ。実は思い違いだった。まるっきり間違っていないけれど、全部正しかったのではない、ということなんでしょう。そういうのが思うということで、私達は思うということと、考えるということをはっきり分けて、使い分けられる人間にならないと、ある時は感情を使うことが大事、ある時は理論的に考える、それは感情をはさまないようにして考えるということなんです。その使い分けが出来なければならないのですけど。
 
ある時お釈迦様の所に異教徒、お釈迦様のまだ弟子信者になってない人、仏教徒でない人が問答をしにくるわけです。お釈迦様とある人が話した内容を伝え聞いて、どうもお釈迦様というのはこの頃有名になっている、有名な修行者になっているが、そういう話をするなら、それはお釈迦様が間違っている。自分の習った事、自分の考えからいくと合わない。だからひとつ問答しに行って、お釈迦様をやっつけてやろう。というふうに議論をしかけに訪ねてくるんです。
 
お釈迦様は托鉢以外の時には、村はずれに行って涼しい所でジェーナ瞑想をしておられる。夕方になると村の人達、町の人達がお話を聞きにくる。インドは暑いので昼間動けないから、夕方になってお話し聞きにくる。他の人もぞろぞろ一緒についてくるわけです。ようし、俺がいっちょお釈迦様と議論してやっつけてやろうと言った人と一緒に。あんたがそんなに言ってもお釈迦様にギャフンとやっつけられるぞ、だけど一つどんなふうになるか見物だからといって他の人もぞろぞろついてくる。
 
それでお釈迦様と挨拶して議論を始めるわけです。それでお釈迦様は、その議論の内容については抜きますけど、あなたが感情に走らずに議論をすることが出来るならば議論をしましょう、とこうお釈迦様は一番最初におっしゃる。ちゃんと見抜いている。ああこれは感情的な人間だなと一見して分かりますから、だからそうおっしゃる。そう言われれば感情的になって興奮して話をしたり出来ないわけです。それで理論的な話が始まるという所が阿含経アーガマというお経にのっていますけど。私達はなかなかそうはいかない。すぐ感情的になる。こんな事いうのは面倒臭いなと思ってみたり、日本人は民族性として温暖な地方に生活をしてきているから、感情がわりに穏やか。感情で思うということと、考えるということの区別がどうもつきにくいので、感情で思うのは解決にはならない。こうしたらいいということにはならないということです。段々理性を使いつけるようにしなければならない。それは必ずしも、悩み事でなくてもそうですけど。悩み事というのは、あるいは悩みというかあるいは苦しむ-苦悩-これは感情から来ているんです。だから苦しいと思う、これはどうしたらいいか分からないと悩む、そういうのが苦悩。人間はいろんな苦悩を持っているが、これはほとんどが感情的だということ。感情によるものだというか、感情的に感じるわけです。感情的に思うことによって生じる心の不安定な状態、それが苦悩なんです。その心の、感情による苦しみ悩みというものを解決しようと思うならば、思わなければ仕様がない。仕方がない、もう私は、どうせもうこんなふうだから仕様がない。これでいい、と思うならそれでもう本当の苦悩でもなくなってくるわけです。
 
しかしこれではいかんな、いつまでも元気が出ない、あるいはこういうふうにやりたいなという気持ちにもならないとしたのでは、人間が腐ってシマいますから、、そういう苦悩、悩みは解決していかなければならない。解決するためにはどうしたらいいか、すなわち考えるというわけです。考える要領を持だなければならない。要領を持たない人は、考えても考えつかないということであれば、その苦悩の状態は相変わらずということになるんです。
 
そこで考える要領です。考える要領なんて普通はあまり習っていない。平たく言うと考える要領です。