仏教による幸福への成功方式 #73(第九章ダンマ 大慈悲 浄土とは別世界か)

浄土とは別世界か

この救済を願う心はとかく宗教的な努力を投げ出し浄土という何もせずに安楽に居られるところのように勝手に想像し易いものですが、そうして求めて得られたところは天国であって決して浄土ではないのです。
 
苦とか楽とかを通りこしたのが極楽なのですから、浄土で楽になるつまり常識で考える肉体的な楽なんてものはないのです。
 
物質と肉体を更に時間も空間も通りこしたのが浄土ですから常識では中々分かりにくいものです。それで一応たとえとして西とし、十万億土先と言うのですが、これは実は地球などの物質からの超越を匂わせてあるのです。だから今あなたの心中にもあり、この地上にもあると言っても真実なのです。又お経にアミダ仏の浄土作りはすんで十劫という無限の年数がたっているというのも実は時間の超越ですから今あると見るのが本当です。こうした一寸常識では分かりにくい浄土を信ずる為には相当の信仰の種を育ててゆかねば無理だということが分かります。幸いなことに、私共の先祖はこうした仏教にふれて千年の経験を奥の心にうけついできているので、割合に他教よりも信じ易いのです。この辺でこの長い経験を総まとめして正しい信仰の実りを共々に実らせ、これを他国に出荷しようではありませんか(観光日本から仏土日本へ-精神と経済の復活)。
 
肉体の楽をこえたところ-あなたはそうした浄土を求める心が起きるであろうか。死んでから先はそうした浄土にゆきたいが今の肉体的な楽のあるこの世に居た方がよい。この世が一番、浄土は二番。これが本心ではありませんか、それもよいでしょう。仏様はあなたとけんかはなさらなにものです。しかし肉体の楽に執着しているとその肉体を捨てる時に捨てきれずに苦しみ、遂には苦しみの世界へと行ってしまいます。これもあなたの望むところではないはず。こうして肉体の楽に執着すれば死苦と死後の苦しみにさいなまれ、肉体の楽を捨てるのは勿体ないしと迷わざるを得ませんが。
 
そこであなたが望む実際的な信仰とは-この肉体がある間、適当に楽をして、精神的にも大いに満足し、肉体がなくなったら精神的にずっと楽する位がいいのではありませんか。実はそれが仏教です。極端にならぬ限り肉体的な適当な楽、ごはんも食べてよい、恋愛も自由、月世界にロケットで行っても結構。五戒十戒を守って仏教徒として毎日、仏陀三宝がこの世によみがえり成就する為の力一杯の実行をすれば、富も健康も、社会的地位や名声も全く自由に得られ満足出来るのです。愛情ある家庭もあなたの奉仕によって成立します。肉体が自由に使える内にうんと楽をつかみなさい。能率よく苦にひっくりかえらぬように適当にセーブして長持ちさせなさい。そしてその要領はこうした幸福をしつこく追い求めるのでなく、あなたの余暇を或いは心の働きの何十分の一かを宗教的活動に打ち込むのです。そこに新生面が現われ新しい活力が泉のようにわいてくるのです。真の幸福が飛び込んでくるのです。そうこうしている内に無限のいのちが体験できてゆきます。つまり肉体を條件としない幸福感が肉体のある内にわいてくるのです。肉体を支配する煩悩が時々この幸福や喜びをさえぎろうとしますが、もし肉体がなくなればもうそのさえぎりがなくなるので全くの無限のいのちとなれるのです。それには今から、あなたの子や、まわりの人々の奥の心に、あなたの信仰に溢れる喜びと実行力を伴った念(信念)をふきこみ伝えるのです。するとあなたは古い肉体を捨てて希望と実行に満ち満ちた新しい肉体に乗りかえることが出来るのです。又地球と人類を見守る無限の慈悲の念としてすべてを包む温和な念として存在してもよいのです。仏陀の念は常識以上の空間と時間のところに念として実在し、又新しい肉体の中にこもって浄土建設業をされているのです。仏陀の念があなたの中にも必ずあるのです。早くそれを信じその念の命ずるままに三宝成就の為の実行をしないと、無限のいのちというボーナスは頂きそこねます。それどころかみ仏の念をふみにじるという結果になりかねないのです。


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