考える要領 (その一)思うと考えるは違う

  思うと考えるは違う

自分の考えというか、自分が思うということとは、同じようで違う。考えるということ、これは理性、思うというのは感情。理性と感情がどう違うかというのは、考えればすぐ分かるわけです。しかし普通は感情で思うことも、考えるというふうに思い込んでいるというか、そういう傾向があります。例えば花を見て美しい、この花は美しい、これは考えたのでしょうか。思ったわけでしょう。美しいと考えるということは全然ないとも言えないが、普通、美しいと言ったら美しく感じるということですから、その感じたのを表現した場合が、思うです。
 
考えるという場合は、これが何故美しいかとすれば、考えるということになる。美しいと思うということは感情で、何故美しいと思うのか、あるいは美しいとはどういうことであるかというふうにすれば、それはもう考えるということになる。
 
何故美しいかと考えることは、美しいと思うことにはならない。だから美しいとはどういうことであるかということを、いくら考えても、美しいなあという感情にはならない。かえって感情的にはなぜこんなふうに考えなければならないかと思って煩わしいと思うかもしれない。
 
美しいとはどういうことか考えて答えを出しなさいと仮に言われたとします。美しいとはどういうことか、ちょっと考えてみます。美しいとはどういうことですか。
 
快い感じを受けるようなものを美しいと言うとする。では快いとはどういうことでしょう。抵抗を感じないでスーツと入ってくるようなものが快いということである。そういうふうに考えた。それが美しいということであるとします。今考えたということは理性で考えた。だけども美しいと思ったこととは違う。美しいと感じたことではない。美しいとはどういうことかということを理性で考えることと、美しいという感じを受けることとは違う、ということなんです。
 
感情と理性とは一応違うということです。所が「思う」というのは、普通は、私は美しいと思うというのを、日常語で言う場合、「あんたどう思うね」と言ってみたり、「あんたどう考えるね」と言ってみたり、実は同じことを、思うと言ってみたり、考えると言ったりしている。だから思うということと考えるということを一緒にしている。あまり考えるという意味ではなくて、むしろ思うという内容を考えるという言葉を使って言ってしまっている場合が多い。ということは、考えるという習慣をあまり持たない。考えてものを言うと理屈は言いなさんなというふうに相手から押さえられる。そういう傾向がある。日本人はお互いに考えることを何か冷たい人間というか、感情が冷たい人間であるというようで、それは人間味がないと、だからこれはいけないというようなふうにして人間味のある暖かい感情を持っている人を、それをいいとして、理性的に考え、ものを言うというような事は、暖かい感情を持っている人間ではないことであると。それは人間として好ましくないと。あえてはっきり分けて言うと、そういう傾向が日本人にはある。