仏教による幸福への成功方式 #72(第九章ダンマ 大慈悲 五逆と謗法を犯すな)

五逆と謗法を犯すな  

五逆とは一、仏の身から血を出させるということ。二、父を殺す。三、母を殺す。四、師匠を殺す。五、サンガの和合をかき乱す。この五つの大逆罪のことです。又正法をそしる(謗法)とは、人々が、世尊が創始した正法によって苦を滅し、仏陀の道を行なって成仏するということを、いやそんなことはないといってそしりくさすことで、これによって人々が仏陀になる芽をつみ取ってしまうからいけないのです。この二つを犯したものは、たとえナムアミダ仏といかに念じても浄土に行くことは出来ないとあります。だから私共はこの二つをどうにでも犯さぬように注意と努力をせねばなりません。
 
あなたも親を殺そうとしている-もし親が生きていれば、あなたは精一杯親孝行すべきだが、親子共々満足するほど親孝行をしているであろうか、意地の悪い姑さんが早く死んでしまえばこんな小使銭まで不自由する目にも逢わぬはずとか、こんなのんべのおやじは早く死んでしまえと案外心の奥で祈っているのではありませんか。
 
又あなたの兄弟がお寺まいりなどに一生懸命になっていると、そんなに信仰なんかしたっておさい銭ばかり取られて何になるかと止めたりし易いもの、口に出さずとも腹の中で冷笑していることも多いものです。自分が正法や信仰がよく分からぬならば徒に他の信仰を非難しないことです。
 
ではこの二つの大罪を犯したものはどうなるか、それは仏陀がその人達は浄土に行けないと言われたのを特別にお頼みするのだから一通りの信仰では追いつきません。他を殺したなら自分の身をもってつぐなう覚悟と懺悔による施行が必要です。それは沢山の生を生かすことです。逃げ回って自分だけ死にたくないと言ってもだめです。果は受けねばなりません。自分が自殺をしてみたところでつぐないにはなりません。又謗法により人が仏陀となり無限のいのちとなることをたち切ったなら、そのつぐないとして沢山の人々を仏陀とならせるお手伝いをせねばなりません。つまり謗法↓讃法です。讃法とは正法を讃めたたえ人々にすすめて仏縁をつくることですが、その為にはまず自分がその正法が分かり喜びを頂かねば讃めもすすめも出来ないでしょう。
 
あなたは正法をそしらなかったか-いや私は毎日ナムアミダ仏或いはナム妙法蓮華経と言って拝んでます、と言う方が多いのですが、これでよいでしょうか。ナム(namoナモ帰依)とはその精神に帰って依(タヨリ)とするという意味ですから、信ずるということにもなります。もしただ口に唱えるだけで、その信仰の目的も方法も理由も実行も分からない、やらないとすれば、全く夢遊病者と変わらないではありませんか。いや信じているから違うと言うかも知れませんが、信ずるのに分かって信ずるのと、分からないで信ずるのと迷って信ずるのとあります。確信-盲信-迷信と下がってしまっては、目的に到達することなど期待できません。信とは分かり、智慧に進んで行く途中なのです。もし分からずにあやふやで(不確信)ナムアミダ仏を言っておれば、ナムします信じますと言っているのはうそということになります。案外このうそつきナンマンダが多いものです。分からずにやる信仰、信仰は理屈ではないのだ、ただ信じればよいのだというおさえつけの信仰は、智慧に進むことをさえぎってしまうので、無智の信仰となり、仏教ではなくなってしまいます。こうして仏陀や正法に対する不信をもって習慣的に唱えてきた言葉は謗法なのです。少なくとも師たるみ仏に対する尊敬を忘れた謗法になるかならぬかの別れ道なのです。ここでたづなを引きしめて、まことの信をもった仏子となり、不用意な言葉をつつしみましょう。
 
仏罰はない-たとえこうした罪をおかしても仏罰というものはありません。ただ自ら無明の盲信という種をまいたのだから、その果はのがれられないのです。多くの人々が先祖(自分の前世と考えてもよい)の謗法によってその果として非常に信仰を毛嫌いし或いは転々と信仰を変えることがありますが、これはやがて正しい信仰にゆきついてつぐないを果たす途中の苦しみということでしょう。膿が出てしまうまでは痛いようにこの果は肉体的にもはっきり受けるもので実例も沢山あり経典にも説いてありますが、一般の人は信じにくいし、又ショックでもあるので信仰が進んでからの勉強とすべきでしょう。しかしいかなる大罪も成仏へのすすめ(讃法)によってつぐなわれて浄土に行かれるので一人としてみ仏が慈悲をかけられないということはないのですからありがたいことです。しかし仏教徒はきびしくこの二つの大罪を犯さぬように互いに力を貸して無駄なつぐないの一生をさけるべきでしょう。


https://philosophy.blogmura.com/buddhism/にほんブログ村 仏教