仏教による幸福への成功方式 #69(第八章ダンマ 六度 佛陀とは)

佛陀とは

三宝互具の御本尊である仏陀とはいかなる方か?これはどのお経にもでてくるみ仏の尊称(如来の十号)を見れば分かります。

 一、如来-真理(如)より来たれる方。
 二、応供-煩悩をなくし供養に応ずる資格ある方。
 三、正遍知-一切を正しくあまねく知りつくされた方。
 四、明行足-智慧の明と正しい実行が足りている方。
 五、善逝-善くゆくところへ行かれる方。
 六、世間解-世間のすべてを解っておられる方。
 七、無上士-この上なく立派な方。
 八、調御丈夫-馬を訓練するように人々をよく導かれる立派な方。
 九、天人師-天(神々)と人間の教師。
 十、仏世尊-正しく覚られ世に尊ばれる方。
 
この十号を体現された方が仏陀であり如来さまなので、あなたが成仏するということはこういう方になるという、或いはならせて頂くということなのです。生前何一つ仏教の原理も知らずぽっくり死んでしまってどうして仏になれるでしょう。ただ習慣的にナムアミダ仏と唱える位ではやはり死んでしまいます。死ぬということのない方がみ仏なのに死んでから成仏というのは矛盾ですね。もし信仰が浅くして死んでしまった方を成仏させるとしたら、余程の財と法供養をしてやらねば追いつかぬことが分かりましょう。私共はあまりにはかない甘い夢のような仏教を聞いていなかったかと反省せねばなりません。
 
私共は今迄に自己の個人的完成を習いました。そして一度び完成の可能性と希望、その喜びを味わえるようになると、それを一人占めしておれず、他の人々にも分け与えたくなるものです。これを慈悲心と言いそれから止むに止まれず他に命ぜられることなく進んで、他の救導を開始することを施行と言い、この施行の完成者を仏陀と言います。十号の三番までを三号と言って仏陀の根本内容と言います。そして六、七、八、九、十が神々や人間に関係し導かれる方ということがよく分かります。半分までが自己に関し半分が他、社会に関するというこの両方を均等に完成された方がみ仏なのです。個人と社会の完成、それは三宝成就の浄土なのですが、仏教のすべてがこの一点に集中されるのです。
 
観念的な真理そのもの、宇宙の意志、天地を作られた創造神、大智をぬきにした慈悲仏などと混同すれば、世尊が力を入れて説かれる縁起実相の仏慧に反し、恩恵を受けることのみに終始すれば仏陀の施行を受け継ぐ者はなくなり、遂に三宝は消滅してしまいます。正法は難しく、成仏は更にむずかしいと後ずさりすることなく、広大なみ仏の慈悲を信じ、御加護を受けて三宝成就の為の施行に精進しましょう。

「徳王よ、大涅槃に入る近い原因に四つある。一つは善友に近づき、二には一心に正法を聞き、三には念をこめて正法を念じ、四には正法の如く修行することである」

「ボサツは遂に、我よく煩悩を破れり、我自ら衆生を救えりと言う想を起こさない。初めからおごる心がないのである」


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