仏教による幸福への成功方式 #67(第八章ダンマ 六度 本尊と本佛)

本尊と本佛 

インドやシナと同じように日本でも学理的な主張によって自宗の優位性をうち出す為に考えられたみ仏の区分に従って仏教がうけつがれてきました。み仏を尊敬の念によってではあれ品定めするという大それたことが当然のことのように千何百年もされてきたのです。その品定めとは仏種三身と言われ今迄誰一人それがみ仏の批判的分割だと疑わなかつたのだから不思議です。

法身仏-ビロシャナ仏(真理正法を仏身に見たてた方)
報身仏-アミダ仏 (衆生を救うという願が報われた方)
応身仏-シャカ仏 (衆生を導く慈悲によって身を応じられた方)
この三種ですが、世尊は自身で自分は応身仏だ法身仏だなどとはつきり言われたことはありません。

「比丘らよされど我、この四聖諦に関してまことに真実を見、清浄のきわみとなれるが故に、我は神々や魔、沙門、バラモン、人間などの一切衆生に対して、無上の正覚を覚れりと公言したり」と経典にあるように一切衆生に対して、自分は正覚者(仏陀)となったのだ、自分を理想とし、自分のようになれと言われたのです。この偉大なる理想の完成者、我らの指導者開教祖を三身に分けることもできないし、その必要もないのです。何故なら仏陀の内容はこの三身のすべてを含んでいるからです。悲しいことには日本では、この三身にこだわり仏陀を三等分してしまいそれでも足らずに観音さまお不動さまコクンゾ様と数えきれぬほどに分裂させてしまい一体どなたが私共の理想なのか分からなくなってしまいました。学者はこの三身に分けただけでは済まず一体どの仏様が一番初めの仏さまかと競争し始め、遂に一番初めの前(無始)一の前の0の時からなられた仏様が本仏だといった理屈を言うようになりました。
 
もしおシャカさまが今ここに姿を表されたならどう思われるでしょう。俺が始めた教えを分けてしまって細切れにしているが困ったものだ。もうそろそろ統一して自分の教えの全体をよく学べと言われることでしょう。
 
本尊とか本仏とかとみ仏を品定めすることは大衆を救導するという世尊の理想には無関係なことです。仏陀という理想を正法(ダンマ)という実行法によって、正僧伽(サンガ)の中で実現するこのブッダ、ダンマ、サンガの三宝をこの世に成就することが世尊の本心なのです。この三宝成就という理想に集中される以外のことは仏教ではないので、仏身だけぬき出して細分したり独断的に高度化させると、サンガの信仰仲間はそれについて行けず脱落してサンガの人々が仏陀になるという可能性は遂になくなってしまいます。

仏陀とはシャカ族の一王子がなられたように、私共も是非ならねばならぬ方なので、神様のようにただ礼拝しその足許にひれ伏す方とは違うのです


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