仏教による幸福への成功方式 #62(第八章ダンマ 六度 忍辱はよろい)

忍辱はよろい  

今はボディガードなどと人を頼ろうとしますが昔は鎧で身を守ったものです。今ならさしづめ野球の審判が着けているプロテクターといったところ。常に公正な判断、何事も第三者のように冷静に批判すれば怒りの玉を受けないですみます。それでもはげしい怒りは受け易いもの、それから守ってくれるのは忍ぶことです。辱めを受けても忍ぶのです。この世間はシャバ(忍土)と言われ苦しみ多くそれを忍ぶのが常ですが、この忍ぶことは又むずかしいことです。他から受ける怒りや辱め、自分の心の中からもくもくとわいてくる怒りなどを忍ぶにはその先手を打つことです。自分の心にわいてくるのは不正欲求とその欲求不満が心因ですから、それを初めから持たないことです。他からふりかかってくる火の粉は遠のくのに限ります。法華経に常に人を軽んじないという名のついたボサツ(常不軽ボサツ)さんはいつも「あなたはやがて仏陀になられる方だ、ありがたい方だ、決して軽んじません」と言って人々を礼拝して歩きました。人々は「この気違いめ、なんで俺が仏様だ、からかうと承知せんぞ」と石や瓦を投げつけました。そうした目に何度あっても腹も立てず遠のいて又礼拝を続けられたそうです。このボサツ様には忍ぶということもなくただ尊敬と喜びがあったのでしょう。
(実例)横腹がキリキリと痛んだり、足のけがをする時、他から怨まれたり嫉まれたりの念の作用を受けている時が多いものです。静かに心当りを思い、たとえ考え付かずとも、その邪念を消除して共に苦しまぬようにと念じると早くよくなります。
 
少々の信仰では腹も立ちますが、タイミングを外すことがこつ。つまり怒りの表現を一分間ずらすのです。例えばナンブッダ、ダンマサンガと口の中で三回唱えるのです。それから腹を立ててみて下さい。または相手にもっとも打撃を与えるようなうまい言葉をゆっくり考えてから発言して下さい。
(実例)夫婦げんかの大半は先祖や三角関係の相手の命日からきています。それで一寸命日を考えてみるのです。なるほどと気がついたらすぐに拝むか、後で拝みますからと心でお断わりしてからけんか再開。
 
 忍ぶということも慈悲の心で相手を見るのがこつ。聖徳太子の十七條の憲法にも、第十條-怒りを捨て人の間違いを怒らざれ、人みな心あり、彼にとって是も我にとって非なる時もあり。我必ずしも聖人に非ず、彼必ずしも愚人に非ず、ともにこれ凡夫のみ(意訳)とあります。自分が聖人であれば、妙なところにも飛び込まぬわけです。他にも忍ぶことをすすめ自らも実行し、やがては忍ぶこともなくなるようになりたいものです。粘り強く怒りを静めとかして大きな人生の理想に進みましょう。

「忍の徳は持戒苦行も及ばぬところである。悪口とののしりの毒を歓喜し、忍んで受け、甘露を飲むが如くするものでなければ、仏陀の道に入り智慧ある人とは言わず。怒りの心は猛火より甚だしいもの、常に防ぎ守らねばならぬ。功徳をかすめとる賊は、怒りより甚だしきはない」
(遺教経)

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