仏教による幸福への成功方式 #52(第七章ダンマ 四聖諦 最初の目的 )

第七章ダンマ「四聖諦」(苦滅原理)

 苦諦とは 知らねばならぬ  四苦八苦
 集諦は  集めて苦となる  無明、愛
 滅諦は  苦楽をこえた   涅槃なり
 道諦は  涅槃へ至る    八正道。

最初の目的
  

個人の完成はダンマ「三法印」(目的原理)によって習いました。その目的達成の為の正行法は「八正道」(正行原理)で習いました。宇宙観人生観は縁起実相で分かりました。こうして人生を見渡してくると人々はあまりにも苦しみで一杯になっています。世尊はこの人々の苦しみの解決法をまとめ上げられました。日本では個人の完成を願うのは声聞(しょうもん-お話しを聞いて修行する)縁覚(えんがく-自分一人で縁起の法則を覚ろうとする)の位で程度が低いとし、その為に苦滅原理を無視する向きもあったのです。これは実に世尊に対する大反逆であり仏教を混乱させる原因にもなったのです。それも歴史的環境に支配された為でしょうが、今日の自由な時代には最も純粋な世尊の仏教をこの世に再現させねば仏子としての最善をつくしたことにはなりません。
 
個人の完成という目的を無視して浄土が完成するでしょうか。石垣を作るのに一つの石をおろそかにしてよいか浄土の中に入る一人一人が欲張りの未完成でよいでしょうか。
 
無量寿経の中に、アミダ仏が自分の浄土に生まれる者が苦滅に至らぬならば自分は仏陀にはならぬと願がけしてあります。日本仏教は苦滅をなしとげてから衆生救導の仏道に入るのではひまがかかりすぎるから、直接仏陀の道へ入ることをすすめたのでしょう。いずれにしても苦滅という大目的は一度は通らねばならぬ仏教の名所です。
 
さて苦滅、涅槃、正覚という目的を達成する為の四聖諦は合理的で科学的で、道徳的で教育的でそして最も宗教的なのです。
 
諦とはあきらめとも読み、よく明らかに知るということで、何だか分からぬからほったらかすというのは間違いです。四つの聖なる真理(四聖諦)は四つの要素が合理的に組み合わされています。

 苦諦-苦の現状(果)  集諦-苦の原因(因)
 滅諦-苦なき理想(果) 道諦-理想への方法(因)
 
苦が出てくる方の原因結果をまず習い(流転縁起)、次に理想への原因結果を習い実行する(還滅縁起)ことで誰でも出来るし又せねばならないのです。
 
苦諦とは-私共は苦しみについて正しく知っているでしょうか。
 (実例)ある婦人に苦がありますかと聞いたら、苦しみで一杯ですと言われました。ではどんな苦しみがありますか一杯ならいくらでも言えるでしょうと促すと、さあと言ったまま苦を並べることが出来ないのです。
 
 
皆こうして漠然と苦しみを感じ、いらいらし不快といかりと不安の日を送っているのです。これでは心病が出てくるのは当然。さて世尊はその苦を四苦八苦とまとめて見せて下されました。世尊は六年間の苦行を捨てたあげく、生命をかけて縁起の法則を覚られ、それをまとめ上げられると慈悲の心をもって共に苦行した五人を導いてやろうと決心され、旅立たれました。そして鹿野苑(ミガターヤ)というところでこの五人に逢われました。この五人は未だ世尊が正覚されたことを気づかずに、苦行を捨てた堕落僧には知らぬ顔をしようと申し合わせておりましたが、世尊が間近に来られると、その神々しいお姿に思わず、それぞれがお坐りになる用意を致しました。そして「友よ」と呼びかけて挨拶をしました。その時に世尊は「比丘らよ、汝らは如来を呼ぶのに名をもって或いは友よと言うてはならぬ。如来は一切の煩悩をなくした、供養を受けるべき方であり又正しく覚った方である。比丘らよ、よく聞け。我はすでに死ぬことはないということを体得したのである。我は教えるであろう。我は法を説くであろう。教えの通りに行ずれば、久しからずして無上の清らかな行をきわめ、現在において覚りとあかしを得て住むことができる。これこそ善き男子の家を出て出家せるものの本意である」と自ら如来になられたことを宣言なされたのです。この教えを受けた五人のお弟子は初めは信じられなかったのですが、二辺中道、縁起、四聖諦と説き明かされて遂に智慧の目が開いて、正覚することが出来たので、苦滅の原理が第一回の効果をあげたのです。そして世尊は、それから四十五年間この四聖諦を主とした説法の旅を続けられました。

「苦諦とは、生も老も病も死も苦である。愛するものに別れるのも、怨むものに会うのも苦である。求めて得ざるは苦である」。つづめて言えば、物や心のすべては苦であるということである。

集諦とは、新しい生を呼び、喜びと貪りとを伴いここかしこに欲の楽を生む愛の渇きのことである。これに欲愛と有愛と無有愛との三つがある。

滅諦とは、この愛の渇きが残りなく滅して捨てられ、すべての執着がなくなったことである。

道諦とは、即ち八正道、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。  この四聖諦は今までに説かれてない私自ら覚った法であるが、私はこの法によって心の 眼を開き智慧を生み光を生んだのである」


集諦とは-苦の原因ですがそれは慈悲の愛とは違って愛の渇き(tanhaタンハ)と 言われ激しい愛欲のことです。その愛を更に分けて三つ

 欲愛-感覚的な特に男女の愛欲のこと。
 有愛-有(存在や物)に対する欲求、例えば死後にも霊魂があると信じ死後の幸福を望む。
 無有愛-あてにならぬ有の存在を願わず、むしろ死後何もないという虚無観に徹して幸福を得ようとする。
 
欲愛は苦を生み出す直接の原因であり有という物や存在、霊魂などに対するとらわれは無智であり無明であるから、更に根深い苦の原因となります。
この無明と愛が集まり集まって果となったのが苦です。
 
滅諦とは-最初の目的、涅槃のことで、苦がなくなった状態です。無明と愛、更に怒りとこの三毒の火をすっかり吹き消して、すべてに対してとらわれの心がなくて、全く自由にして清らか、尊くして静かそのものといったもので、そこに全生命の輝かしさと智慧がこもっているのです。
 
例を上げれば、心に煩悩の糸が沢山まきついていて不自由なのを苦といい、それをまあ毎日ごはんも頂けるから結構、病気で寝たきりでも家中でよくしてくれるからありがたい、仏さんの智慧を習ったから死ぬ心配もなくなったと一つ一つその煩悩の糸をほどいてゆくと、心は明るくなり自由にのびのびとなります。これを解脱と言います。この解脱された方を福田(ふくでん)とも言い、こうした方々に供養をして宗教運動を助ければ、共々の喜び。

「丁度ガンジス河は大海に向い、大海にゆきついておさまる如く世尊の弟子、在家出家の 衆は涅槃に向い、涅槃にゆきついておさまる」

 道諦とは-ダンマ「二辺中道」(正行原理)です。この具体的な実行法は、祈念法で説明します。涅槃(正見)へゆきつく為の足を正定と言い詳しく説明したのが四禅です。


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