辺見庸氏インタビュー  言葉としての力を生み出す(三)

メディアが中心になり創り上げる「自ずからのファシズム
 
辺見 「国難」を口実にして、救国愛国統一戦線をオールジャパンでやろうとか、それがファシズムです。しかも概ねそういうものはテレビという人間の意識の排泄器官みたいなものから垂れ流されている。大阪の選挙での騒ぎなどもそうですが、メディアが中心になって狂騒を創り上げている。それに民草が乗っかって踊りを踊っている。困ったことだと言うけれども、本当は誰も真剣に反対していない。それがファシズムです。これは文芸や詩の世界にも及んでいます。「自ずからのファシズム」と私は呼んでいるのだけど、外部の権力に強要されたものではない。つまりこれは我々のファシズムなんですよ。だから自己点検がいる。
結局上から押し付けられているのではなく、自ら欲していると。
辺見 そう思います。日本の30年代のファシズムもそういうところはあるんです。だけどその頃は思想警察的なものが実体としてもあったわけで、外部の監視ももっと強かった。今は我々の内側からのファシズムです。統制されることを願っているんじゃないですか。だから自ら言語を統制してしまう。これは誰がそういうことを演出しているのかというと、誰もいない。結局表現者たちみんなでやっているとしか思えないですね。まあ詩人の大御所が生命保険のコマーシャルを書いているような国ですから(笑)。でも誰もそれを言わない。ただこの国は裏切りと転向者の国みたいなものですから、点検をやりだしたら全員やらなきゃいけない面がある。はっきり言って言語的にはみんな責任を取らなければいけないと私は思います。
表現者だけではなく、受け取る側も思考停止に陥っているともお考えですか。 辺見 それもあります。貨幣と言語の同質性を言う人もいますが、例えば3月11日にまず大手資本が麻痺して資本の流れが止まってしまったことで言語が停止してしまった。あの時のテレビは完全にそうでした。CMが打てなくなって結局公共広告機構(AC)の訳のわからない呪文みたいなものが流されて、それがサブリミナルとなって思考停止となってしまった。資本に依らずに言説を打ち出していくことが出来ないんですね。
私も何度かインタビューを受けましたが、それは大抵日本はどうなるんだ、どういうふうに復興すればいいのかというものでした。そういう設問自体が不愉快なので、この際一回滅びたほうがいいんじゃないかと言うと、正気なのかという目で見られて、結局それは無かった事にされて新聞に載らないんです。僕は本気で言っているのですがね。こんなインチキな国は無くなったっていいじゃないかと。それがある種文学的な衝動であるにせよ、です。百人に聞いたら一人ぐらい言いますよ、この際一回無くなってしまったほうがいいじゃないかと。そういった言説を全部きれいに消していく作業だけは、あの連中は見事にやる。みな「自己内思想警察」がいる。震災にかこつけた詩の特集などというのも、なんだか怪しい。束ねることができない、束ねてはならないのが詩なのですが束ねようとしている。
今欧米だけでなくポリティカルーコレクトネス(PC)と言われるものが徹底しています。自分自身の信条ではなく、それは正しいとされる、あるいは間違っているとされるという外部の判断で動くようになっていますが、それは完全にファシズムです。差別用語だけがきれいに取られれば取られるほどパラドキシカルに実質的な差別は進んでいく。差別用語は無いけれども差別は拡大する。貧困者がどんどん増える。そのように言語世界が捻れ、たわんでいることに気がつかないで詩なんかありえない。ブレヒトツェランの詩のほうがまだ新鮮で、言語として活きています。
今は世界が変化のただなかにあり、見たことも経験したこともない爆発の兆候があちこちで起きています。例えば去年の5月にビン・ラディンが暗殺されましたね。みんな目もくれませんが、あれは異様な話です。中東、北アフリカの激動や欧州の信用不安、アメリカの貧困者のデモも、それらとは何の関係もないのかと言ったら、それは違う。そこなんです、僕がいきり立っているのは。それらのカオスの一貫として3月11日もあるのだと僕は捉えています。そうでなければ3月11日が日本という国の、東北に限定された非常に小さな悲劇に終わってしまう。そうではなくもっと大きく地球規模で考えていいと思います。そこでは自ずと言語のダイナミズムが必要とされるわけですから、自分の中にある自己抑圧の機制と対峙していかないと、詩は何かの協力者として、またお先棒を担ぐ事なるでしょう。そういうことに対する嫌悪というか疑りの眼は、素人も玄人も含めて詩人たちに限らず日本の文学者やもの書きたちにはあまりにも無さすぎます。それはどこの国と較べても無い。つまり理想が無いということですよ。この国ではもの書きとしてやっていくことに大変な虚しさを感じるから、辞めたいのだけど辞める訳にはいかないから書くしかない。

作家も詩人も予感を持っていないと作品足りえない
 
もの書きという言葉が出ましたが、『水の透視画法』の中で、作家は予感を感じ続けてそれを言葉にしていかなくてはならないと書かれています。その予感というのはもちろん未来予測といった単純なものではないでしょうが、その予感自体今の書き手あるいはメディアには無くなってきていると感じられているのですか。
辺見 言語というのは予感と切り離せない。予感性を持っていればこそ言葉は立ち上がってくる。予言とか予感などと言うとまるで占い師みたいですが、作家も詩人も予感を持っていないと作品足りえないと思います。3・11は我々の文明と文化がいかにペラペラなものなのか、戦後思想や戦後民主主義のインチキ性、脆弱さを明らかにしてくれました。我々は3・11の前から沢山の戦慄すべき条件の中で暮らしていたのに、それを見ず、予感しないようにしてきたわけです。そのことにメディアも作家も詩人たちも大いに責任があるんです。はっきり言って私は、言語世界に生きている人間は3・11においては皆A級戦犯だと思ってます。
もの書きを辞めたいのに辞めるわけにはいかなと先ほど言われましたが、『水の透視画法』を連載している時は精神の自由を感じていたと書かれていますね。
辺見 ものを善いているとある種パターン化します。誰かに与したい、あるいは不特定多数の人間に書こうとしたり、不特定多数の人間に対して得意がって見せたりもしがちです。お前たちは分かってない、俺はこれだけ分かっているんだというような街いですね。『水の透視画法』ではそういうものから自由でいられたんです。特定の人を想定しているわけではないれども、ものを書くのも一人であって読むのも一人であるといった関係性の中で文を書きえたという意味です。そこで言語がもっとの胸の奥深くに届いていく気がしたんです。
『水の透視画法』は一応散文とかエッセイに分類されますが、私は『眼の海』の言語とそんなに腑分けが来るものではないと思っいるし、大体ジャンルなんかどうでもいいのです。表現の方式において自由でありたいので、散文の中に詩を挿んだり、あるいは死語となったような言葉をもう一度甦らせてみる。それで構わない。旧来のシンタックスに閉じ込められるのは非常に不自由に感じるし、それでは今の言語状況を打開できないのではないかという気分もあります。それから既成の文芸誌だとか詩の雑誌、あるかないか分からないけれども詩壇や文壇から無視されてもいいとも思っています。若い人たちはそういうところに幻想を持っていますが、むしろ書けるところでどんどん大胆な発表をしていくべきで、言葉としての力を生み出すことがとても大事なんです。私は徒党を組むのが嫌いだから一人でやりますけどね。言葉とは一体何なのかと、自分の中に穴を掘るようにして穿っていくことが今は一番大事な気がしています。  (おわり)
 
★へんみ・よう氏は作家。早大卒。一九七〇年共同通信社入社。北京特派員、ハノイ支局長、外信部次長、編集委員などを経て、九六年退社。その間、七八年中国報道で日本新聞協会賞、八七年中国当局から国外退去処分を受ける。九一年に『自動起床装置』で第一〇五回芥川賞、九四年に『もの食う人びと』で講談社ノンフィクション賞、二〇一一年に詩文集『生首』で中原中也賞を受賞。その他の著書に「辺見庸コレクション」 (全三巻) 「私とマリオ・ジャコメッリ」など。一九四四年宮城県石巻市生まれ。