辺見庸氏インタビュー  言葉としての力を生み出す(二)

震災は現在の貧寒とした言語状況をはっきりさせてくれた

―詩や散文に限らず、言語というものは本来はもっと飼い馴らせないような危険なものだと考えておられるのですか。
辺見 言語はどのみち、しばしば飼いならされます。資本や左右の権力、宗教が最も利用し、それらに利用されやすいものとして危険だと言っているのです。資本や権力になじまない蠱惑的というか魅惑的な言語とはなんなのか、そんなものがありえるのかありえないのか、よく考えます。
詩が何らの挑戦性も帯びないなら、それは発泡スチロールの屑みたいなものです。いまの言語世界は本当に発泡スチロールの屑みたいなものだというイメージを私は持っています。それがすべてではないですが、詩はもっと現状否定性を帯びてもよいのではないでしょうか。現状否定的にならざるをえない客観的理由がはっきりとあるのですから。詩は現状の言語秩序に刃向かう純粋な犯罪であっていいという意識も私にはあります。詩は「社会に意義のある言葉」であってはならないと思います。見慣れたものや正常とされるもの正気とされるものを根底から疑り、何気ない日常に奇異の念を抱かしめる言葉も詩の力であるべきです。
――今の詩人はみな戦争協力詩の末裔であり、なおかつ今の方が言葉の水準がもっと低くなっていると言われましたが、それは詩に限らず、言葉はとにかく考える必要もないほどに分かりやすくなければいけないという要求がそうさせているとも言えるでしょうか。
辺見 そうかもしれません。肯定的思惟の時代は思考と言語表現の射程が短くなり、複雑さが削がれてどんどん単純化していきますが、実はそうすればするほど内面の抑うつ的な状況は進みます。これはちょっと他国に例を見ないぐらい進んでいるのではないですか。もう言語的にはファシズムが起こっているのではないかと思います。
――そういう状況はかなり前々からあるのだろうとも思いますが、この震災がきっかけでいっそう強くなったとは思われますか。
辺見 わたしはそう思います。今月にNHK新書の書き下ろし『瓦篠の中から言葉を―わたしの<死者>へ』を出しましたが、そこで震災後の言語状況を関東大震災東京大空襲のころの言語状況と比較する試みをやってみたんです。それで気がついたのですが、関東大震災のころって、今よりも一部の物書きたちはもっと“不謹慎”で意外に自由なんですね。つまり表現のボリュームが今よりある。表現のボリュームがあるということは、思考の射程が長いんです。自由闊達というかユーモアさえある。大日本帝国憲法下で思想警察みたいなものがある時代に、びっくりするような自由で深い言語があったんです。むしろ平和憲法下にある今の方が、形式的には思想警察はないけれども、個々人の体内に特高のようなものがある。それが一番不快で不思議ですね。
その意味では今度の3月11日の震災にはいいこともあったと思うんですよ。つまり現在の貧寒とした言語況をはっきりさせてくれたということです。災禍のダイナミズムを表現しうる言葉がこの国にはないということを大震災が教えてくれた。また大地震と大津波のダメージだけではなくて、原発メルトダウンや放線というものを言葉としてどう表現していくのかといった問題で露呈したのは、今のマスメディアはそれを数値でしか言いえないということです。そこにどれほど大きい歴史的な意味があるのか、どういう事態がこれから起きようとしているのかを描きえない。福島第一原発が放出したセシウム137は広島型原爆168個分だという報道がありましたが、そのことの文明論的意味と人の未来について書くことができずに、木で鼻を括ったみたいな数値だけが羅列される。広島原爆当時の原民喜の『夏の花』などは今よりよほど内面的で、かつ予言的なものでした。この国が広島・長崎というものを年中行事化したことで痛苦な記憶を空洞化してきたことも露呈したと思います。記憶の空洞化は、言葉がなにものも担保せず、なにも証さないということも結果しました。
今度の震災ではほぼ2万人が亡くなったり行方不明になっていますが、広島長崎の原爆の被害は数字だけで言えば、当時の人口規模からして今とは比べものにならないぐらい凄まじいホロコーストだったわけです。今の震災の悲劇だけに閉じこもるのではなく、広島や長崎にも改めて思いはせることがあってもよいと思うのです。私は実際に足を運んだのですが、故郷の母校の焼け爛れ方を見たときに、原爆が落ちたみたいだと感じました。そこには民喜が書いていたような超現実主義な風景が現出していたんですね。原発メルトダウンだって民喜が書いたようにまさに「スベテアッタコトカ/アリエタコトナノカ/パット剥ギトッテシマッタ/アトノセカイ」です。でも現在は巨大な出来事や異常な現象はいくらでもあるのだけれど、本質が見えない。というより、本質に求心しようという思考の力が衰微しているようです。炉心溶融という世界史的事件の本質的意味に追いついている、追いつこうとする言葉がさっぱりない。震災・原発メルトダウンは悲惨ですが、言葉が届かないのはさらに悲惨です。
その一方ではなぜか詩の世界が妙な勢いづき方をしていて、その“不時現象”もちょっと怖い感じがします。この時代が生みだしている不気味な韻律というか言語の射程の短さのままに、詩はもっぱら3月11日を悼みつつ、おおむね時代と状況を肯定する側にまわっているようです。戦争協力詩のころとどこかつながるものを感じるのですが、そんな危機意識を対象化している表現者は少ないように見えます。数少ない例外は『声の祝祭―日本近代詩と戦争』 (坪井秀人著、名古屋大学出版会刊)です。すごい本です。これを読んで詩人たちは全員まず青ざめるべきです。ぶるぶる震えるべきです。私に詩を朗読するよう提案した大新聞の記者も、この本で勉強したほうがいい。詩を声にするということが私にはなぜ容易にできないのか、そのわけがこの本には書いてある。みんなが詩を書き、高らかに朗読し、詩が放送され、大いに流行ることが結構なことのようでいて、ヤバイことでもあることがこの本では明らかにされています。詩の声の記憶が『声の祝祭』にはしっかり刻まれている。こんなことも記されています。「いわゆる大東亜戦争に中心化される十五年戦争の詩の時代は、詩の書き手と詩の受け手との差異がいまだかつてないほどに小さくなり曖昧になった特異な一時期として位置づけることが出来る。表現する主体の(量的な)膨張は、表現の(質的な)低落を招いたが、それはあくまで結果論であって、むしろ重要な点はそれが表現の場を比例的に拡張させたことである。……家庭から隣組から職場から戦場へと、ほとんどあらゆる場所に詩の表現の場が提供されたという点で、全く稀有な時代であった。言うまでもなくこのことは、詩を含む文学が大政翼賛的に国策に従事し利用されたことと関わっている」。じつに示唆的です。私は昨年読んだのですが興奮しましたね。
 
戦争協力詩とどこかつながる詩の世界の妙な勢いづき方
 
そうこうするうちに3月で、11日の奈落はまるでなかったかのように塗りかえられ、テレビからはまたぞろばか笑いが聞こえてきます。大阪で起きているファシズムはテレビ、新聞を中心とするマスメディア由来のものです。この社会はへラヘラ笑いながらファシズムの道を歩んでいます。昨年3月11日以降も事態は「維新の会」の増長ぶり、権力による教育統制を認める大阪府教育基本条例案の信じがたいでたらめ…。 
――詩の中でも『水の透視画法』でも書いていますが、今回のことは終わりでもあるがひとつの始まりでもあると書かれています。
辺見 本当の始まりが始まったのだとしか思えないですね。おそらく歴史的に経験したことのないことが起きるのでしょう。これは誰もが本当は感じていることだと思うんですよ。それをもっと詩人たちは言語化していかなければならないのに、みんなネグつちゃっているというか出来なくなっている。
――『水の透視画法』の中でも書かれていますが、そのもう一方でいわゆる忘却力の凄まじさも感じておられますね。
辺見 阪神大震災の時は私は通信社の現職のデスクで、あの時も驚きましたけど、今度は阪神大震災の時よりももっと規模が大きくて、それと原発がありますからね。愚かな復元力というのは阪神大震災の比ではない。慌ててものを隠しているみた射線の高い表土だけ刮げてコーティングすれば隠れてしまうと思っている。それが始まったのは放射線の問題ではなくて死体です。二万人が死んだということは、現地に入ったら死体だらけでシャッターを切るとどうしても写ってしまうんです。それを一所懸命消して載せさせなかった。テレビはさらに見事でした。津波は家の中から何でも瓦磯として出してしまうから、エロ本なんかもいっぱい転がっているんですね。みんそのことは知っているんだけど絶対に撮らない。でも私はそういうことが記事中に入っていたらどれだけ救われるかと思う。堀田善衛は『方丈記私記』の中で、「人間存在というものの根源的な無責任さ」を自分自身に痛切に感じたと書いていますが、逆にそれを読んでどれだけ人が救われるか。そうではなく、日本人はこんなに立派で、こんなに戦って、こんなに我慢強かったなどと書かれたら、みんな鬱屈してしまいますよ。それなのにリアリティを巧妙に消して美談満載の話にしてしまう。語弊があるけどむしろそちらに震災以上の恐ろしさを感じます。
――現地で起きていることを報道しながら、結局リアリティを切り離して受け入れやすくしているということでしょうか。それが今回は特に激しかったと感じられたのですか。
辺見 非常に激しいし、背後に「国難」という二語を浸透させてしまいましたね。国難や国体という言葉は極めて危険な言葉で、堀田善衛も書いていますが、こういう大きな言葉が出てくる時は本当にろくな時ではない。『方丈記私記』にはいくつも線を引きたくなるぐらい重要な指摘があります。が、先人たちが残した指摘を我々は学習せずに、見事に同じように繰り返している気がします。もちろんまったく同一の繰り返しではないにしても、大きいうねりの中で似たようなものが間違いなく出て来ているのではないかと懸念しています。メルトダウンも怖いがそっちも怖い。結局そのようなことが新しいファシズムみたいなものに吸引されていく根拠にもなるわけです。
――今の日本は非常にファツショ的空気が強くなっていることも確かにあるかもしれません。自分たちと異なるものは許さないという状況が強くなりつつある印象を持つこともあります。