辺見庸氏インタビュー  言葉としての力を生み出す(一)

 辺見庸氏インタビュー
言葉としての力を生み出す
  詩集『眼の海』の刊行を機に
           週刊読書人 2012年1月13日号
『もの食う人びと』などの著作で知られる作家辺見庸氏が、中原中也賞を受賞した詩文集『生首』につぐ二冊目の詩集『眼の海』を昨年11月に刊行した。この詩集は3月11日の東日本大震災を契機として生み出されたのはもちろんだが、そこにとどまることなく、むしろ消費物的に安易に精神の癒しや鼓舞を要請されたような言語化に徹底的に抗することによって、より深く広い世界にその眼差しを向けようとしているものである。この詩集と、同じく2011年6月に刊行された『水の透視画法』を中心に、辺見氏自身が抱く言語への思い、そして震災によってより明確になった、詩をはじめとして現在のメディアの言語状況に対して抱く危機感などについてお話しをうかがった。
                           (編集部)
 <追記>1月9日、『眼の海』は第42回高見順賞の受賞が決定した。

 
―1昨年に初めての詩集『生首』を刊行され、そして今回二冊目の詩集となる『眼の海』を刊行されたわけですが、表題ともなっている「眼の海」と題された一連の作品は昨年の「文學界」6月号に掲載されたものですね。掲載時には「わたしの死者たちに」という副題が付けられていましたが、詩集ではその言葉がなくなっています。これは何か思うところがあったのでしょうか。      
 辺見 「文學界」に掲載した時から、死者たちとか、大震災という括り方にちょつと違和感があったのです。内容的にもいわゆる「震災詩」というものに限定されるようなものではなく3月11日とその死者たちとう視圏からもっと突き抜けたものですから、書籍化するにあたってあえて外しました。
 ――これらの詩はもともと「文學界」からの依頼があってから書かれ始めたものなのですか。
辺見 いや、依頼と執筆はむしろ阿吽の呼吸みたいなものでしたね。『自動起床装置』で芥川賞をもらったときの担当編集者が「文學界」編集長として「生首」もすでにあつかっていたのです。昔から知っているものですから、やりやすかった。ただ詩作をまとめて始めたきっかけはもちろん3月11日です。それから2か月ぐらいは反射的に書きました。ところが震災をめぐる言語状況にほとほと嫌気がさしてきて、それと同時に、原発メルトダウンに揺さぶられたというか、詩の視座や想像の射程をもっと伸ばし深めないといけないと思ったのです。それで5月ぐらいから4、5か月まったく書けない抑うつ状態になりました。
 
資本化され自ら言語統制する詩に抗して違う言語空間を開くために
 
 ――確かに第一部の「眼の海」は一気呵成に書かれた印象ですが、書き下ろしの第二部フィズィマリウラ」はそれぞれの執筆時期を見ると完成までにかなり時間がかかっていますね。先ほど言語状況にほとほと嫌になって書けなくなったと言われましたが、それは周りの状況に対してですか。
辺見 詩や散文の世界だけではなく、マスメディア全体を含めてですね。まあ当初から予想はしていたのですが、ここまで言語世界というものが萎縮し収縮するのかと驚きました。「震災詩」という呼称からして、私にはなにか生理的に堪えがたいのです。戦前、戦中の翼賛詩みたいなものを旁髭とさせるしね。あまり読んではいないけれども、語調や言語の射程の短さ、単層のエモーションなど、こういってはなんだけれど戦争協力詩に似たものまである。そういう言語的な潮流異変を感じて、別の内側の海を作らないとやっていけないなと思つたんです。それが「眼の海」という私個人の内面の海です。
 それがないと全体的なものに回収されてしまう。つまり「国難」を語る者たちの愛国統一戦線みたいなものに、ね。あれが堪らんのです、私は。
 先日、大震災一周年に際して詩の特集をしたいということで、某紙電子版の記者から私のところに詩の創作と朗読をしてくれ、それを映像化したいというオフアーがありましたが、お断りしました。要請のメールには「震災から1年を迎える来年3月11日にあわせて、新たな言葉を詩人の方たちに紡いでいただければ、その言葉は必ずや、社会にとって、人々にとって、意義のあるものとなり……」、とあり、こりゃだめだなと思いました。だめだなと思う当方がおかしいのもしれませんが、「社会に意義のある言葉」とは詩とは関係がない。「意義のある言葉」の危うさ、怖さを知らないのですね。この国の惨めな詩史を勉強していないのでしょう。そのことに自覚や恥じらいがない。象徴的に言えば、我々は例外なく戦争協力詩人たち、戦争協力記者たちの末裔です。かつては戦争協力詩こそ国家・社会に意義のある言葉とされました。“血筋”をもう忘れてしまっている。でも、忘れないほうがいい。散見するに、今の言語状況には貧寒としたものを感じます。どうやら愛国救国詩みたいなものが売れるらしい。それで詩の世界でも[震災ビジネス]が生じたのではないかと勝手に考えています。思い過ごしみたいに言う人もいるけれども、詩というのは以外に危ない。「日本文学報国会」がかつてどのような合同詩集を刊行し、だれが参加し何を書き何をどう朗読したか。若い人たちも知っておいて損はない。詩はナシヨナルなものに吸収されやすく、地域や共同体、民族といったものを美化してしまいがちです。それは私が最も忌み嫌うことです。詩は詩だけではないのですが、束ねられてはいけない。
 『眼の海』は震災詩ではありません。『眼の海』は社会に意義ある言葉」でもない。違う言語空間を拓くためには、自分で海を作るしかないんです。
 ――『眼の海』では辺見さんが子供の頃に過ごされた風景と思われる場面も出てきます。特に『眼の海』の「赤い入江」という詩に登場する風景は、『生首』に収録されている「入江」という詩にも出てきますが、この風景はやはり辺見さんの原風景なのですか。
辺見 そうですね。私の感覚器官は全部その辺りで形成されていると言って間違いないし、いわゆる原風景です。ただ、詩のなかではそれを具体的な地域として限定してはいません。指定する必要もないと思っています。それぞれの読者が自分のトポスをそれぞれに持っているわけですから、固有名詞で一地域に限定する必要はまったくない。固有名詞としての地名をだすことは、それが詩的言語として響きが深いかどうかということでは意味があるとは思いますが、特定地域の人びとの美質や環境を絶対化するのは詩というより標語であり、「社会に意義のある言葉」の怖さにつながる気がします。
 ――固有名詞ということでは『生首』や『眼の海』だけでなく、『水の透視画法』などでもそうですが、植物、そして動物の名前などを多用されています。それが詩を読んでいる時に印象的なものとして残りますが、こうした固有名詞をよく用いられるのは、やはり詩的言語の響きといった意味合いもあるのでしょうか。
辺見  固有名詞が指示するそれぞれの限定的意味ではなく、韻の響き合い、音の広がりみたいなものが好きです。「アシタバイソギクオニヒトデ/アマモ/コアマモ/ウミヒルモ」なんて書いたりしましたが、もはや意味に縛られてはいません。詩はもっと意味から解放されていいと思います。
――確かに植物だけではなく、その他にも通常ではもう殆ど使われない言葉、たとえば海盤車(ひとで)や化野(あだしの)といった一般的にはすでに忘れられかけている言葉などもかなり使われています。 
辺見 詩の言語域は空間的にも時間的にも無制限でかまわないと思います。この世とあの世、過去・現在・未来を往還するにはどんな言葉が要るのかよく考えます。というのは、いま流通している言葉はほとんどコマーシャルな言葉、ないしはほぼコマーシャルに侵された言葉、コピーです。これは私の言い方で言えば「鬆の立った言葉」でクリシエ以下です。そのような言葉を自分は使わない、というより、そのような言葉に使われたくないという思いがあります。とっくの昔から詩の世界にも資本が完全に及んできていますが、そのことと言葉全域のコピー化現象には関係がある。それにまったく無抵抗でいることはできません。いろいろな方法で抵抗を試みたらいいと思います。古語、死語として棄てられた言葉、方言、マイノリティーの言語をもちだしたり、商業的流通を拒む質の造語があったっていい。もっともっと自由で挑戦的であるべきです。
詩というものは一見、無害な外面をしていますが、ときに豹変して国策にも使われるしコマーシャルにもなる。金子みすゞの作品の一つ「こだまでしょうか」をとり上げたACジャパンCMが、大震災によるCM差し替えで耳にたこができるほど頻繁に流されました。私は気持ち悪くなりましたが、金子みすゞの全集はよく売れたといいます。詩が大震災で動揺した人心の慰撫策にもちいられたようで、「社会に意義のある言葉」の文脈とも絡みなにか寒心に堪えない。戦前戦中は詩が戦意昂揚に悪用され、詩人たちはすすんで協力しました。「ペン部隊」にも加わりました。この国の作家や詩人というのは工イポリティカル(apolitical)というかノンポリというか、そういう人が多いらしくて、いちはやく国策に応じてしまう人が多いんですね。悪い意味であまりにもナイーブで善意の人たちが多い。欧米と日本では詩と詩人の概念、棲息場所、棲息方法が違う気がします。日本はやはり戦争協力詩の影というか出自を絶てていない。申し訳ないけれども今度のことではっきりしたんじゃないですか。「国難」などという戦前も用いられた怪しげな言葉を蹴飛ばすのでなく、お国と一緒になって「絆」だとか勇気だとか物書きが言ってどうする、と私は思いますがね。
肯定的思惟を先行させて状況全般を受容するだけでなく、批判的発想を揉み消していく重圧みたいなものが、外側からくるのではなく表現者の内側にあるようです。言語統制を自分でやっちゃっている。今の言葉にはそういうのが多い。自分で思想警察をやっているような、ね。まるで詩を何か清いものだとか浄化してくれるもの、聖なるもののように、そうあるべきもののようにみているようですが、そういうのもあって結構だけれども、それだけではおかしいし、私にとっては恐怖の元です。何度も言いますが、日本の現代詩は戦争協力詩人の子孫たちがやっている。その血筋に対して徹底した自己検討をしたことがないことにも問題があります。金子みすゞ宮澤章二の詩を一部だけとりだしてきて、サブリミナルな意識のコマーシャルのように利用したりする。私はそれに気持ち悪さを感じています。