(3)悟るとは我から我を除くこと  吉永光治

 桃水は、悟りについてよく知っていた。また悟って悟りに囚われたり執着することのおろかなことも桃水はよく知りぬいていたのである。病気をして薬を飲んだ、すると薬のおかげで病気が全治した。全治したら薬はもはや必要ではない。治ったのに薬を飲み続ければ却って薬の中毒になって再び病気をするのではなかろうか。迷いに対して悟りがあるのである。悟って迷いがとれれば、もはや悟りも不用である。頭で解っても実地にぶつかって、それがはっきりと自由に消化し得なくなっては、折角の大悟も結局は死んだ悟りである。この死悟の人々が世の中にどんなに多いか、思ってみてもぞっとするのである。禅では、この死悟の事を、「野狐禅」と呼んでいるのである。それはちょっと悟って一尺墜落していく生悟りの人を指すのである。