中岡慎太郎と龍馬暗殺 #8

「土佐の名物お殿様:山内容堂
明治維新後、完全に隠居した容堂は、連日両国などで豪遊し、界隈では名物お殿様として有名だったという。

幕末に於いて、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄された土佐藩の元藩主は、先祖の一豊が徳川方についた為、その恩恵も有り、代々徳川家には従順であった。そして、自らが藩主になった経緯も、徳川家の力があった。であるから、岩倉具視に対して「慶喜を討つとは何事か!」と、怒鳴り散らして会議に乱入した事もあり、かといえば朝廷にも顔が利いていた為、西郷をして「単純な佐幕派の方が、遥かに始末がいい」と言わしめた。

容堂は、非常に冷酷な人間であるという印象が強い。殿様だから仕方ないのかもしれないが、それにしても切腹をさせる事が多かった。そして当時の土佐藩は、上士が郷士下士)などに対して、平然と「斬り捨て御免」がまかり通っていた。薩摩や長州でさえも、そんな事はなく、むしろそういう土佐の郷士に同情すらしていた。龍馬が勝に初めて会った時も、土佐出身と聞き、同情的な言葉をかけられて、龍馬の心が動いたとされる場面も、多々描かれる場合がある。

勤皇党弾圧の時も、上士ではない(白札という身分で、郷士よりは上)武市半平太(たけち はんぺいた:瑞山・ずいざん)に対して、切腹を命じた。維新後、土佐藩薩長に虐げられた状況を嘆いて、武市を切腹させた事に、後悔をしていたと言われるが、私には当然、中岡や龍馬を失った事への後悔に聞こえてしまう。無論、容堂黒幕には証拠は無いが・・・。だが、これこそ、容堂の性格を表していて、中岡や龍馬といった身分の低い脱藩者には目もくれず、武市という、まだ上士に近い身分の者であれば、記憶しているといった趣を感じてしまう。

中岡と容堂の関係だが、中岡が「五十人組」を結成した時に、容堂と面会している。普通、上士などでしか、お殿様には会えないのだが、この時は容堂を警護するという名目で江戸入りをし、容堂の命令で信州松代の佐久間象山を招聘する為に奔走した。中岡の西洋に於ける類稀な知識に、容堂が目を付けたからだと言われている。その時に中岡を、徒目付(かちめつけ:旅中雇)という位に昇格させたのだが、土佐に帰ると勤皇党の弾圧を強化し、その中岡にも捕縛命令が下る。その時に中岡は脱藩をして長州に身を寄せ、石川清之助に変名し、「禁門の変」では長州兵と共に戦った。

それにしても、自ら目を付けて置いて、一転、捕縛命令を下すとは、ここでも容堂の性格を垣間見る事が出来る。

龍馬と容堂に関しては、江戸にて御前試合とでも言うべき剣術大会で、容堂と会っていたとされるが、これは事実ではないらしい。ただ、龍馬が脱藩の身ながら、大政奉還前に、海援隊業務として土佐藩へライフル銃を運んだ折、土佐は大騒ぎとなり、容堂もそれを耳にして「騒がしき奴」と言ったらしいが、これも事実かどうかははっきりとしていない。

いずれにしても、中岡や龍馬の二人の事は、はっきりと記憶してはいないであろう。何故ならば身分が低く、しかも脱藩をした者であるからだ。お殿様である容堂が、そんな二人を、まともに覚えている訳はない。覚えていたとしても、脱藩者という扱いでしかないだろう。

後藤や福岡の配慮で、脱藩の罪を免除された二人であったが、その後に於いても、藩と関わりを持たず、実際、福岡達が名目的に行った感があり、土佐藩からは未だ脱藩者という意識が強かったようである。

ただ、仮にも脱藩を許された事により、二人に隙が出来たのかもしれない。一応の土佐藩士に対して、まさか幕府の新撰組でも、見廻組に於いても、自分達を捕縛しに来るとは考えなかったのかもしれない。大政奉還後という事もあるが、幕府大目付の永井と親しくなったという事もあったのだろう。よく、龍馬ほどの剣豪が、たやすく討ち取られる事など有り得るだろうか、と唱えている人もいるが、それならばもっと当時の政治情勢や状況を、時系列に沿って調べるべきである。


詩集アフリカ と その言葉達より
http://tjhira.web.infoseek.co.jp/nakaoka.htm