中岡慎太郎と龍馬暗殺 #7

「自説:中岡慎太郎と龍馬暗殺の黒幕」
これは、ある意味、人間の上下関係と藩体制にも関わってくる。幕末以前でもそうであったし、維新後もまたそうであった。

藩というものは、維新前に於いて、いや薩長同盟以前を見れば分かるように、藩同士は実に仲が悪かった。各々独立していたといってもいい。今現在のように、日本として一つにまとまったものではなく、関所があるくらいで、アメリカの州よりも、簡単に行き来は出来なかった。徳川の下とはいえ、その藩主に対しては絶対で、脱藩でもしようものなら、マフィアの組織を抜けるぐらいに危険であり、重罪であった。武士が携えている刀も、藩のものであり、管理も厳しく行われていた。実際、龍馬は脱藩の際、帯刀して行った訳だが、残された家族は藩に対し、紛失したとしてシラを切っていた。しかし、紛失だとしても重罪であるから、いよいよ言い訳が出来なくなると、その責任を姉のお栄が背負い、武士の娘として自害したぐらいなのである。龍馬はそういった事も背負って維新を奔走していたのである。

土佐藩にしても、薩摩と長州に対しては、仲が悪かった。薩摩と長州にしても、薩長同盟が結ばれたとはいえ、実際、藩の人間同士は、仲が良くなったとはいえず、維新後の薩摩主導政府を見れば分かるように、長州にしても、土佐にしても、薩摩に虐げられた。特に土佐藩は、薩長よりも下に扱われた。土佐藩は、徳川家に対して、薩長よりも非常に親しい間柄であったからともいえるし、薩長より、土佐は血と汗を流さなかったという理由からでもある。

そういう土佐藩の側役(藩主や藩公の側近で、土佐藩家老よりも上。後藤象二郎は、家老よりも下の参政。ただし、時系列によっては、大監察という記述も有り)である福岡孝弟が、誰に対して気を使わねばならないのか?

西郷だろうか? 確かに薩摩と仲が悪いとはいえ、新政府の要人。軽く言える訳は無い。大久保利通にしても然り、岩倉具視にしても然り、長州の木戸孝允にしても然りだが、福岡孝弟の言葉のニュアンスとして、土佐藩内での取り決めという雰囲気があり、薩長の人間より、もっと近しい人物に思えたのだ。

一体誰かというと、咄嗟に私は、土佐藩のご隠居、藩公とはいえ実質的な支配者であり元藩主の山内容堂/豊信(やまのうち ようどう/とよしげ)を思い浮かべた。

欄外:次回からは、その理由と裏付けを語る事となるのですが、すでに出揃っている研究書などを、山内容堂が黒幕、そして、土佐藩の上士などが、容堂の命令により手引きしたとして再読すると、あちこちに納得しうる証言や史料が読み取れると思います。例えば、研究者が「よくも、土佐藩邸のこんなすぐ近くで暗殺が行えたものだ」などというコメントも、私には「近くだからこそ行う事が出来たのだ」と、つぶやけるのです。私の説は出ました。以降はあくまでも、この説に則った裏付けを書き込む事となりますが、その前に、青字にした部分の疑問や事象等を読んでみて下さい。納得できる事が多々あると思われます。

実際、突然登場する人物や歴史的な流れ等、それぞれ詳しく説明をしてこなかった事は、ご了承下さい。それをやると膨大な労力となり、すでに一趣旨を超えてしまいますので・・・。その代わりと言ってはなんですが、人物名には別名や読み仮名を、なるべく記載して置きました。書物によっては、別名のみ記している場合があったり、読み方も二通りあったりと、同一人物なのかどうか分かりづらくなっている事があるので。

それぞれの人物や歴史的流れは、ネットや書籍で調べて戴ければ、より理解が深まる事と思われます。また、それにより私の説とは違う説(薩摩藩黒幕説とは別に)を発見、または唱えて戴ければ、発展性があると思われます。例えば「いろは丸事件」の関係者説等は、興味深いです。


詩集アフリカ と その言葉達より
http://tjhira.web.infoseek.co.jp/nakaoka.htm