原始仏教講座 第二講 その六

第二講 その六

お釈迦様時分は毎日托鉢に行かれる、托鉢に行かれることが信者指導なんです。お話をなさらなくても裸足で、自分で自ら歩いて行って家の前に立たれる。その修道者、宗教者としての宗教家としてのまじめな姿を見せる事自体が人々に尊敬の心を起させるわけです。隠れて女作っているなんてのは托鉢行っても見抜かれる、あんな奴に供養するかになる。まじめな宗教活動をしていない限り、托鉢に行っても信者さんから相手にされない、自分がご飯も頂けない、生きていかれない。

日本の場合はお寺の坊さんは宗教活動しなくても生きていける。学校の先生が本業、葬式をやると臨時収入という風になる。人が死ぬとお金が入る。人が死ぬのを待つ。妙な話になってしまう。生きている人の為の宗教活動じゃなくて、なんとなく、死んだ人の為、あるいは葬式の為というようなのが,宗教行事、宗教活動と言えるかどうか。そういう所が日本仏教のだいぶゆがんできた所です。

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