父 杉田正臣著

(九十一)

父は
 八十五歳の時日向俳壇史を著わした
父は
 多年の願望を成就してほっとした
父は
 それからほんとの老人となった
父は
 交通事故を恐れる家族のために
 日課の散歩は独行動をやめた

父のお伴をして私も朝早く散歩に出た

父と散歩しながら祖父の人柄を私は聞いた

父は
 祖父は癇癪持ちの頑固親爺だといった

父は
 だから祖父が有難いのだといった

(九十二)

父の創業時代の捨石となった母は
 七人の児を残し三十七歳で逝った

父はこの簿命の母をあわれみ
 終生その冥福を祈った

父の創業と守成と七児の育成とは
 第二の母の四十余年の献身的内肋によって
 完成した

父は第二の母に深く感謝し
 終生その余生の平安を願った

(九十三)

父は
 鬼手仏心の人であった

父は
 患者をわが子のように思った

父は
 なすべき手術は断固として実施した

父は
 慈心妙手の人であった

父は
 他人もまた自分のように思った

父の手は
 痒い所にとどく手であった

(九十四)

父は
 一度始めたことは終わりまで実践した

父は
 終わりまで実践せぬことは始めなかった

父は
 他人に迷惑をかけぬことをモットーとした

父は
 自分で出来ることを企図し実践した

父の行動には
 凡て有終の美があった

(九十五)

父は
 最も近い義務を完遂した

父は
 空想よりも現実を重んじた

父は
 過去よりも現在を重んじた

父は
 未来よりも現在を重んじた

父には
 過去は現在のためにあり
 未来は現在の結果であった

(九十六)

父は
 すべてのものを大切にした

父は
 すべてのものにその作者の心をもって接した

父の遺愛のチョッキは
 今もなお私を温かく包んでくれる

父の遺愛の硯は
 私に毎月「根」の字を書かしてくれる

父の遺愛の品々は  
 私にものの大切さを教えてくれる

(九十七)

父は
 一度師と仰いだ人は生涯の師とした

父は
 一度親友とした人は生涯の友とした

父は
 一度愛読した書物は生涯の書とした

父には
 凡ては一期一会であり一は全であった

父は
 めぐりあいの縁を生涯大切にした

(九十八)

父は少年時代 大志を抱いて
 出郷した

父は青年時代 苦学力行して
 専門の智識を身につけた

父は壮年時代 医業によって病人を救い
 同業のために奉仕した

父は老年時代 その趣味を生かして
 日向の俳壇史を完成した

父は晩年 自分ほど幸福な者はない
 と感謝した

(九十九)

父と私とは
 同居五十年同業三十年を恵まれた

父は私の幼年時代少年時代
 私の父であり保護者であった

父は私の青年時代
私の父であり師であった

父は私の壮年時代
 私の父であり師であり友であった

(百)

父の最大の遺物は
 伝統ある家屋敷ではない

父の最大の遺物は
 一千冊の良書ではない

父の最大の遺物は
 六十冊の日記ではない

父の最大の遺物は
 苦心のその著述ではない

父の最大の遺物は  
 各種のコレクションではない

父の最大の遺物は
 敬天愛人の清い生涯である