父 杉田正臣著

 父 杉田正臣著

序詞

「父」は七年間「根」誌に発表した
父から抜粋したものである

「父」は七十才にして漸く生まれた
私の処女作である

「父」は同居五十年間同業三十年
の父への謝恩追慕集である

「父」は詩にして詩にあらず
私の志を述べたものである

「父」は私のえがいた理想の
父親像である

「父」は私のざんげ録であり
告白である

「父」の詩百篇
ただ 思邪なしと念ずるのみ

「父」の詩百篇
ただ 父を偲び志を述ぶるのみ

「父」の詩百篇
ただ 永遠の父の俤を伝えんのみ

「父」の詩百篇
ただ 明治の心明治の姿を伝えんのみ

「父」の詩百篇
ただ 詩三百の序曲たらんと念ずるのみ

 (一)

父の名は 杉田直
俳号は善哉のち作郎
昭和三十五年十二月七日午後三時
息子である医者の私に
手を握られながら眠るように死んだ
行年九十一
父は十四歳の時志を立てて郷関を出た
はじめ軍人を志願し
近視のため断念してからは
苦学して医術開業試験をうけ
二十二歳で医者となり
先ず順天堂で外科を学び
次いで佐野病院で内科を学び
二十五歳より郷里佐土原で開業
同志と共に伝染病予防に尽した
二十六歳再び志を新にして上京
日本眼科の父河本教授に学んだ
明治三十一年二月
宮崎に眼科病院を開業
八十九歳まで診療に従事した

(二)

父は幼にして礼楽を好み
小学生にして琴を弾じ
学校当局の忌譚にふれ
爾来一生楽器を手にせず
やや長ずるに及んで
家君 国学者野田成諄に
国学と和歌とを学び
一代の碩学 能勢直陳に
漢学と作詩とを学びしは
父の一生の学問の根底
和歌は多く発表せずして
ただ興至れば自ら楽しむのみ
詩は転じて俳句となり
四十歳「雁来紅」を編し
八十五歳「日向俳壇史」を生み

米たべて生きて八十八の春

これ絶筆にして辞世

(三)

父は物を捨てぬ人であった
一枚の広告ビラでさえも
一冊の広告雑誌でさえも
丁寧に保存し整理した
車中の歌稿や句稿は
食堂車の広告ビラの裏にメモされた
東京大震災の翌年であったろうか
製薬会社の人が尋ねて来た
その広告雑誌のバックナンバーを求めて
父は第一号から揃えたものを与えた

一枚の葉書も
一通の手紙も
父にとっては天与の資料であった
死亡通知の葉書は神棚へ
不用の葉書は盲学校の点字用へ
封筒は必ず一端を鋏で切り
不用のものは裏がえしにして
老年の日の辞書の抜き書きに用いた

(四)

父は叱らぬ人であった
六十年の間に
私は三度父に叱られた
幼年の日ぬりたての白かべに
墨でいたずら書きをして
びっくりするほど叱られた
少年の日無断外出して
夜おそく帰宅したとき
父は戸をしめて内に入れなかった
私はいいわけにうそをついた
祖母と母とのとりなしで
詫び証文を書かされた
無断外出をせぬこと
決してうそをつかぬこと
あの夜の父はこわかった
三度目は私が既に医者になり
父の反対を知りながら結婚した時だ
父は異郷のわが子に最後の手紙を書いた
やがて和解の日が来た、
父は私の妻をいたわり最後に感謝した

(五)

父はそのころ五十代の終りであった
私はそのころ二十代の終りであった
病気のため一生をかけた研究を断念し
生ける屍となって帰郷した私に
同窓の友の輝かしい業績の発表は
強い刺激羨ましい知らせであった
私は弱い心と体とをもてあまし
夜な夜な酒で憂さを晴らした
オデン屋廻りが習慣となった
帰宅の時刻は段々遅くなった
午前一時二時三時
酔歩まんさん鼻うたを歌いながら
私は寝静まったわが家の門をくぐった
私はふと父の書斎の電灯に気付いた
その灯は私の足音が門内に入る
とたんに消えた
私は鉄槌を頭上に下された思い
私のオデン屋廻りも夜遊びも
太陽の前の雪のように
だんだん消えていった

(六)

父は日記を残した 六十年間の日記を
明治三十二年から昭和三十三年まで
のがそれだ
天候 人事往来 書信の交換
公私に関するニュース 旅行記
重要診療事項 物価等々
きわめて簡明に
初期は筆のちペンで書いた
父は今日の日記は
その夜のうちに記した
父は七十一二歳で公務を辞して暇ができると
六十冊の日記の抄録を自らつくった
明治編二冊大正編一冊昭和編二冊がそれだ
ある時父は私にいった
ひまがあったらこの日記抄録をよんでみよと
私は正月の休みにただ独り山の湯に行き
父の日記抄録五冊を朝から晩まで一心に読み
自ら十冊のノートに分類抄記した
不肖不孝の子 それが私だ   
これが読後の私のいつわらぬ告白であった

(七)

父は四十一歳の時大病をやみ
九死に一生を得た
その時以来 父の心には常に死があった
私がはじめて父の遺言を聞いたのは
十一歳の時であった
その年私には四人の妹があった
呆然として父の遺言を聞く私に
父は楠 正行の話をした
正行が桜井駅で父正成の遺訓を聞いたのは
僅かに十一歳であったことを
私は母と共に父の遺言を聞いた
父の遺言は真剣で具体的であった
父亡き後は直ちにこの広い家屋敷を
売るなり貸すなり処分して
小さな家に移り最低生活に入れ
決して人に迷惑をかけるな
自活して苦学せよ
健康第一に一家の平和をはかれ
静座閉目すれば
あの父の声が聞こえるようだ

(八)

父は一事貫行の人であった
一度決したことは必ず継続実行した
若き日病弱を自覚してからは
往復五キロに近い宮崎神宮
徒歩日参すること五十年
雨の日も風の日もかわりがなかっこ
時々朝夕二回往復することもあった
父は徒歩参拝するために
質素な父に似合わぬ靴を数足もった
片手にステッキを片手に雑誌を
この姿を見た町の古老は多いだろう
八十歳を越え交通の危険を覚えても
徒歩参拝は中止しなかった
途中で三度も自転車にたおされた
つい息子である私が
さらに孫である私の息子がお供した
時々昔のくせが出て独行動
子や孫は西に東にその行方を求めた
やがて父と子と祖父と孫と
人々の寝静まる早朝の町を

高らかに語って行った

(九)

父は腰が少しも曲らなかった
八十を越えても九十を越えても
老人の会合では野中の一本杉のように
真直な父が目立った
一生腰骨を立て通した父
そこに父のバックボーンがあった
黒住教の神官の家に育った父は
幼時から常に敬神正坐を教えられた
五十年間五キロの徒歩参拝
常に神につかえる心を忘れず
忙中閑をみつけて書を習い
旅をし俳句をつくり歌をよんだ父
はじめは之をつとめ次には之を好み
やがて之を楽しんだ父
常に心の欲する所に従い
ついに矩をこえなかった父
力行して余力をつくり
九十歳でなお読書抄録をやめなかった父
この父を目のあたり見たことを
感謝しわが身の幸を思う

(十)

父はわがために寸陰を惜しみ
ひとのために時間を忘れた
父がボンヤリしていたことを
五十年間に一度も見なかった
客を愛すること遠釆の友の如く
患者のためには時を忘れて接した
父はわがために一円を惜しみ
ひとのために百円を惜しまなかった
一円のつり銭も無駄なく受取った父
公共のために百倍を寄付した父

父は若い日非常な愛煙家であったが
患者に禁煙させるために
先ず自ら禁煙を断行した
父は酒を好まなかったが
愛酒家の親友や祖母のために
上酒を献じた
父は生きとし生けるものを愛したが
害虫と毒蛇とは自ら杖をふるって
征伐した