松のほまれ 松尾多勢子 第十五

 第十五 刀自水戸浪士を設きて飯田藩との衝突を避けしむ

元治元年甲子十月、水戸浪士藤田小四耶.武田耕雲斎、山口兵部、田丸稽之衛門等、筑波山の囲みを出で、上京して事を闕下に訴へんとし、八百余の精鋭を率ひて、途を信州に取り、和田の駅に到りぬ。諏訪松本の両藩連合してこれを和田峠に要撃せしかど浪士の鋭鋒当るべからず、両藩大に利を失ふ、浪士等勝に乗じて、これを追撃し、兵器糧食を奪ひ取り、更に進んで、諏訪に入り、直ちに伊那街道に沿ひて南下し、将に飯田城に襲来せんとす。

飯田藩においては、この報を聞き、大に驚き、上下紛擾、市内の老幼婦女の如きは、みな難を近郷に避けしめ、各家に一人づゝの壮丁を止めて、もし一朝浪士の市内に侵入するあらば、直ちにこれを撃ちはらひ、同時に市内に火を放ちて、浪士を鏖殺せんと、戦備をさをさ怠りなかりき。

当時、刀自は病床にありしが、これを聞きて、大に憂慮し、もし不幸にして、砲火相見るに至らば、三千の市街は、空しく灰燼に帰するのみならず、勤王志士の被るべき損害も、亦少なからざるべし、こはゆゝしき大事、捨ておくべきにあらず、しかず、浪士をして、市街以北の間道を通過せしめ、兵戈相交ゆるの惨なからしめんにはと。乃ち同士北原稲雄、今村真幸に旨を含ましめ一方、藩主に対しては、市民をしてこれを請願せしめ、他方、浪士に対しては、上飯田村字二間道通過の交渉をなさしめ、両氏その間に立ちて、大に斡旋せしかば、その画策当を得て、市街は為めに兵燹の災を免かるゝを得たり
た  せ  子
 ほとゝぎすなかで幾夜かあかしが
     波のうきねのゆめもむすばで

(松のかほり 清水謹一著 公論社刊より)