松のほまれ 松尾多勢子 第二

 第二 刀自の生家と婚家と

刀自は、みすゞかる信濃国下伊郡の山本邑に、文化八年五月を以て生る。竹村常盈の長女なり。人となり温厚篤実にして、気節高く、幼き頃より、古典和歌などを学び、とりわけ歴史を読むをこの上なき楽みとせり。されど片田舎の事とて、つきて学ぶべき人もなければ、常に家にありて、父の教を受け、日夜怠ることなく、励み居れり。

十九歳の時、はじめて、同郡伴野邑松尾淳齋の許に嫁せしが、琴瑟の和諧せるは、いふも更なり、舅姑に事へては、よくその真心を尽し、また婢僕を取扱ふに情け深かりしば、靄々たる和気いつとなく家に溢れて、やがては、一郷のその徳に倣ひしもの、多かりけるとなん。

刀自は、主婦として、よく家政を整へしのみならず、生来好めることゝて、少しの暇だにあれば、書斎に入りて、学びの道をたどりき。かつ、天性怜悧にして、事理を解するに敏なりしは、実に一を聞て十を知るの語に漏れず、取りわけ、和歌の道には特殊の長所と嗜好とを有し、福住清風、石川依平、小林可誠等に就きて学び、たちまち斯の道に、堪能なるを得たり。

刀自は、また己が好める書冊を購ひ求めんが為め、平素その家にありて、質朴倹素を旨とし、つとめて、冗費を省きしはいふも更なり、婦女子の最もよろこび愛ずべき化粧品などは、惜げもなく売り払ひて、ことごとく書冊を求むるの資にあてたりとぞ。衣服化粧品をもて、無上の宝となす世の婦女子らよ、こゝに顧みる所なくして可ならんや。
                            たせ子
我もいざ道ふみわけて見まゝほし 
      むかしながらににほふさくらを


(松のかほり 清水謹一著 公論社刊より)