松のほまれ 松尾多勢子

松のほまれ 松尾多勢子

第一 刀自とその時代

嘉永六年六月四隻の米鑑来りて浦賀湾頭に錨を投じたり。この警報の一たび江戸に達するや、幕府の驚き一方ならず急使を京都に馳せて、叡聞に達せしめ、一方にはまた、在府の諸大名を城中に集めて、その意見を問ひしより、幕府が政権を離るゝの端これより始まりぬ。そもそも、尊王主義の萌芽は早く既に文学の隆盛につれて発達し来れり。儒学元和偃武の後、藤原惺窩に始まりて、やうやく盛んとなり、水戸光圀は史館を起しての師を集め、国史の編纂に従事せしめたり。

このころ釈契冲もまた国学を研究するの緒を開き、つぎて、荷田春満、加茂真淵、本居宣長等、国学の士前後輩出して、盛んに国書を著はせり。

平田篤胤は、宣長没後の門人なるが、いたく皇道の衰へたるを歎き、敬神愛国の説を唱へて、世に大義名分を明にし、大に勤王の士気を鼓舞したり。

かくの如く、勤王の思想は、やうやく萌えたちて、人心騒然たるの折抦、たまたま、米艦浦賀に来り又幕府その所置を誤りしかば、かねてより、皇室の陵夷を嘆けるともがら、或はまた、幕府の政策を腑甲斐なしとして憤れるともがら、京都に集まり、尊王攘夷の主義の下に大に幕府反対の気勢を昂めたり。 この時に当り、幕府は、阿部閣老卒して、老中堀田事を執りしが、井伊直弼入りて大老となるに及び、激烈なる手段を以て、国論の鎮圧を謀り、或は親藩に蟄居を命じ、或は党獄を起して、勤王の志士を刑するに至りしかば、いたく世の憤を買ひ、萬延元年、上已參賀の途、つひに桜田門外の雪と共に消え失せたり。

こゝに至りて、国家の紛擾は、ますます、縺れにもつれて、風雲暗憶、血雨は、文久元年五月、高輪の東禅寺に飛び腥風は、二年正月、坂下門を襲ひ、十二月品川の公使館を焼くあり、三年二月足利木像の首は三條河原に梟せらる。

当時刀自は京畿にありて、勤王の士気を煽ぎ、維新の豪傑、明治の元勲と呼ばれたる諸士と共に、もつぱら国事に奔走したりしなり。

     唐船の来りしといふを聞きて。     た せ 子
沈みつるその神風もこりずまに
       またもよするかおきつしらなみ


(松のかほり 清水謹一著 公論社刊より)