三宝法典 第二部 第三九項 矢の譬え

矢の譬え
 
時に世尊、サーバッティー祇園精舎にとどまりたまえり。弟子のマールンキャプッタビクは静かなる所にて思えり。世界は永久なるや否や、世界は有限なるや否や、霊魂は肉体と同一なるや否や、如来は死後存在なすや否や。かかる問題を世尊はしりぞけて説きたまわず。われはこれに堪えざれば世尊にこれを問わん。もし世尊、これを説きたまわずば修行を止めんと思いて、世尊のみもとに参り、かくのごとく世尊に問いたてまつれり。

「マールンキャプッタよ、われはおんみにわがもとへ来たれ、わがもとにて修行せよ、この四つの問題を解説なさんと約束せしことありや。」   「否なり、世尊。」
  
「おんみはまた、かくのごとき問題を解説せらるるなれば、如来のみもとにて修
行せんと約束せしことありや。」   「否なり、世尊。」

「マールンキャプッタよ、われもおんみも約束せざるを言うはおんみの愚痴なり。何ゆえにかかる意義なきことをもってわれを、たぶらかさんとなすや。」
 
きびしくいましめたまえる世尊は、他のビクをかえりみて説きたまえり。

かかる問題につきて、解説せられざる間は修行なさずと言う者あらば、かれはそれを知り得ざる間に死にゆくならん。たとえば、毒矢を受けたる人ありとす。人人集まりてこの毒矢を抜かんとなすに、この矢を射たるものが男なるや女なるや、その弓が大なるや小なるや、その矢の羽根がいかなる鳥の羽根なるや、その矢じりがいかなる形なるやなどを知らざるうちは、矢を抜くべからずとかれが、言い張るなればかれは死するのみなり。
 
マールンキャプッタよ、世界は永久なりとの見解が生ずる時も、清浄の行をなすと言うことなし。世界が永久なりまたは永久ならず、その他の見解にかかわらず、生と老と死と、憂れい悲しみ苦しみ悩みはせまり来たるなり。われはこれらを、この現在において除かんがために法を説くなり。
 
マールンキャプッタよ、われによりて説かれざることをそのままに受け、われによりて説かれざることをそのままに受くるべし。説かれざることは、かくのごとき問題なり。これらの問題を説くは利益にならず、清浄の修行のためにならず、煩悩をほろぼし、すぐれたる知恵を開き、覚りを得、ニバーナに入るためにならざるものなり。説かれたることとは、苦集滅道の四聖諦なり。こは利益となり、ないしニバーナに入らしむるものなり。」
 
尊者マールンキャプッタはこのみ教えを、歓喜して信受せり。

南伝一〇巻二二二頁中部六三マールンキャ小経
四聖諦(苦諦・集諦・滅諦・道諦)

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