生き方メッセージ #48(学・導の系)

   『学・導の系』      
教えてみれば分かる事だが
自分の学びの足らない事だ
そこから真の学びが始まる
 体験なしにも教えられるが
 体験したものは導きとなる
 自らもその道を歩むからだ
学んで体験し 体験から学び
学んだ分を導き導きから学ぶ
人それぞれ学・導の系を歩む
 
[学・導の系] 昔の英語発音はカタカナ式で教えたものである。しかし実際の英語会話には使えなかった。この使えるまでにするのが導きと言えよう。ここに教えと導きの違いが出来てくる。体験が無ければ導きは出来ない。 

   『様々な道で学と導が行われるのは自然欲求だから』
 体験体得している事は教え導きたくなるものである。親が子に教え導くのは親としての自然の情である。猿の世界でも親は単に養うだけでなくかなりのシツケをしている。学びも教え導きも自然に備わるから学・導の系である。

[学・導の系] 「私は登った事はありませんが、この道を行けば登れるはずです」と教える事が出来ます。しかし自分で体験していないと、細かい事や苦しい事までは教えられません。体験内容まで教えるのは導きと言うべきでしょう。山を登った事がない人がガイドになる事はありません。導く人は先に歩むものですね。

 教える事の限界・導く事の無限さを知る事が真の学びと言える。この違いがハッキイリせぬままにやたらと教えが流行する所に、様々なヒズミが生じるのではないでしょうか。学校に限らず、経営や家庭総ての場で、学びと導きが適確な結び付きになる事が今日最も必要でしょう。それは生き方の根幹をなすものでもあります。


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