辺見庸ロング・インタビュー 沖縄タイムス 国策を問う  沖縄と福島の40年 9(3)(4)

辺見庸ロング・インタビュー
沖縄タイムス 国策を問う
 沖縄と福島の40年 9
 
(3)「国難」盾に押しつけ
トモダチ作戦でも、思いやり予算の件でも、沖縄メディアが批判的な記事を流すと、逆にインターネットで修撃にさらされる。そうした日本全体のムードというものが、沖縄における報道でさえ影響を受けかねないものだと実感しました。
 
 辺見 そうですね。わたしは危険性を感じています。本土の沖縄観というものに近年、とりわけ3・11以降、変化があるだけじゃなく、沖縄自身の沖縄観というか米軍観というものも急速に変わってきている気がします。すごく分かりやすい言葉で言えば、以前にあったような、「基地はいらない」という空気がなし崩し的に変わってきている。
 
 -特に復帰のころと大きく変わったのは、自衛隊に対する認識だと思います。今回の北朝鮮の「人工衛星」発射問題でも、本土から地対空誘導弾パトリオット(PAC3)部隊が大々的に沖縄に展開、配備されても、そのことに正面から異議を唱える主張は限定的で、批判を口に出せない雰囲気もあったと思います。
 
辺見 政府、防衛当局の思うつぼですね。尖閣諸島の中国漁船の間題、北朝鮮のミサイル問題、それと3・11。そういうもので一気に安保の局面が変えられている。それをしっかりチェックしなければならないメディアが一緒になって騒ぐ。「危機」を煽る。もういまにも、北朝鮮からミサイルが沖縄に飛んでくるみたいなことを流す。普天間基地問題からみんな視線、注意をそらされている。世論はいま巧みに操られ、誘導されています。マスコミはしきりに当局のお先棒を担いでいる。メディアは住民側に立った監視役ではなく、権力に飼いならされた権力のためのウォッチ・ドッグ(番犬)になりさがった。一部の例外を除けばそうじやないですか。「メディアが戦争をつくる。戦争がメディアをつくる」というけど、これからますますそうなる気がします。
 それから、時代が冷戦構造の時代とも、ポスト冷戦構造の時代とも大きく変わったということ。価値観のたがが外れ底が抜けた。第二次大戦後の世界の枠組みが根底から崩壊し、世界的規模でアノミー(混沌)状態が進みつつある。マネーが暴走するにつれて、世界にはいかなる平和的規範も準則もなくなり、貧困と暴力が各所でかつてなく剥きだされてきました。資本主義と社会主義、経済先進国と第三世界発展途上国といった古い国家グループ間の対立ではなく、BRICS(ブリックス)諸国、とりわけ中国、ロシアによる世界の覇権争奪が激しくなってきた。米欧は全体的に著しい退潮を余儀なくされている。こうしたなかで米国はアジアにおける権益と戦略的足場を死守したいと考えて、軍事的にもアジア・シフトを再編している。そうはさせまいとする新興列強の中国、インドに加えてロシアが米国と現在、展開しているのは外交などというなまやさしいものではなく、かつてなく激烈なパワーゲームです。
その中で沖縄をどう考えていけばいいのか。どうしたって大きな流れというのは安保問題だとされてしまう。そして、安保という国策は大震災という「国難」にあっても最重要であるから、沖縄の住民はとやかく文句を言わずにお国のために我慢しなければならない、という新たな押しつけと切り捨てというのが、今始まりつつある。〈米国は震災であんなに日本を助けたじゃないか〉〈真の味方は米国だ〉〈米国の軍事力なしには中国の脅威に対抗できない〉―そんな考え方が勢いをつけている。この論理には沖縄住民の平和と安全という観点が完全に抜けおちている。もともとリチャード・ニクソンが日本に沖縄返還を約束したのは、安保延長と引き換えでした。
1968年の琉球政府の行政主席選挙で勝利した屋良朝苗さんが訴えたのは「即時無条件全面返還」であり、その精神の柱には米軍基地反対があった。しかし、72年のいわゆる「核抜き・本土並み」復帰は米軍基地を維持したままのものであり、「核抜き」はクエスチョンマーク、「本土並み」はまったくのまやかしで、そのまやかしを正す作業も行われてこなかった。沖縄にかかわる日本の戦後思想には抜きがたい「虚妄」がある。さっきも言いましたが、僕は「本土」という言葉を疑います。沖縄は日本本土ではないのか。では、沖縄って何だ? そう問い返してしまう。一体、本土の思想は沖縄を生身の「人」として考えたことがあるでしょうか。沖縄は単に「島」であり、「石」とみなされてきたのではないか。沖縄の車のナンバープレートにはかつて「Keystone of the Pacific」(太平洋の要石)と記してあったそうですね。日本政府当局も沖縄は「人」というより「要石」または「捨て石」という発想があり、戦後民主主義もその誤り、差別観と本気で闘わないできた。
40年の虚妄と幻想と差別、それとどう向きあうべきか、ぼくは考えています。東北であれだけの震災があったんだから沖縄で騒ぐべきじゃないと言うのなら、それは全然違う。その自己規制ムードはやめた方がいい。もっともっと怒るべきです。
 
 
(4)ファシズム醸す機運
 
 -辺見さんは著書で「なにかはかりがたいものは、上から高圧的に布かれているのでなく、むしろ下から醸されているようです」と指摘していますね。
 
 辺見 ファシズムつていうのは必ずしも強権的に「上から」だけくるものではなくて、動態としてはマスメディアに煽られて下からもわき上かってくる。政治権力とメディア、人心が相乗して、居丈高になっていく。個人、弱者、少数者、異議申し立て者を押しのけて、「国家」や「ニッポン」という幻想がとめどなく膨張してゆく。〈尖閣をめぐり中国漁船の領海侵犯があった。中国側に反省はない。東シナ海ガス田問題もある。北方領土もロシア側のやりたい放題だ。3・11があった。政府は弱腰で、無為無策だ。北朝鮮のミサイル問題、核問題もある。日本は国際社会からなめられている〉――という集団的被害者意識のなかで、例えば、集団的自衛権の問題についてもう誰も論じない。憲法9条なんてもうほとんど存在しないかのような流れになっている。
 逆に、「なめられてたまるか」という勇ましい声が勢いづいてきている。ミリタントな、なにやら好戦的な主張が、震災復興のスローガンとともに世の耳目をひき共感を集めたりしています。尖閣を東京都が買う、という石原慎太郎知事の発言もそうでした。「政府にほえづらかかせてやる」という石原発言にマスコミは喜んでとびつきましたが、尖閣を買って、その先をどうするのか、じつは大した展望がない。もともと衆議にはかっていない、いわば際物(きわもの)的構想であり、一昔前なら一笑に付されたものがいまは石垣市長が賛同したり、大阪維新の会府議団も支持表明したりと冗談ではすまない空気になっている。勇ましい発言をすればするほど大衆受けする時代がすでに来た気がします。
 ミリタントな気分を誰がたきつけているかというと、政治家だけでなく、戦前、戦中もそうだったけれど、マスメディアですよね。マスメディアがさかんに笛を吹き、人びとが踊りを踊っている。テレビは視聴率がとれればいい、新聞も負けじと派手な見出しを立てて読ませていこうとする。もう一歩進んで冷静に考えてみるというのではない。それが事態をますます悪くしている。
 大震災や原発事故のようなことが起きると、人間の情動は不安定になる。そんなときにもてはやされるのが石原氏や大阪市長橋下徹氏のような論調。好戦的な論調に溜飲を下げる者が増え、支持を得やすいわけです。だからこそ新聞はそれにチェックを入れなきゃならないはずなんだけれども、その役割を果たしているとは思えない。やっぱり何度も言うけれども、ルース大使が被災地に行ったことや「トモダチ作戦」の多面性についてちょっと距離を置いた、分析的な報道をしたっていうのはほとんどない。沖縄2紙が写真を使わなかったりしたのが冷淡だとネットで叩かれたりしている。それが気持ち悪いんだよね、はっきり言って。
 しかし河北新報(東北地方のブロック紙)なんかは、沖縄の問題と東北の問題には同質性があるという独自の報道をしていますね。僕は「同質性」には大いに疑問があるけどね。だから必ずしも全部が全部じゃないんだけれども、でも全国紙はどこもほとんど同じように「トモダチ作戦」絶賛、絶賛だからね。これは異様ですよ。
 これは関係がないようで関係あると思っているんだけれども、複数の在京メディア関係者から実際に聞いた話で、福島第1原発の事故のときに当初からメルトダウンが起きたことは分かっていたと。でもメルトダウンという衝撃的な用語を使わせない空気が社内にあった。で、メルトダウンという言葉の使用をみんなで避けたと。それがしばらく続いた。そのことともね、どこかで関係がある。自己規制と自己矛盾ですね。「トモダチ作戦」なんて、何年も記者生活をやっていたら、あれを米側がただのフレンドシップだけでやるわけがないことぐらい、そんなことは常識でしょう。何らかの戦略的な目論みがあるはずだと取材し、分析し、報道するのが、ジャーナリズムの仕事の基本なんだけれども、それをしなかった。あれだけの窮状に遭って助けてもらっているのに、それにけちつけることはできないというセンチメントが優先されていった。背景には、憲法9条日米安保という本質的に矛盾する言語を、2つながら、無責任に肯定している、受けいれているという「スキゾ」というか分裂症的無意識がある。そのしわよせを沖縄が負わされつづけている。40周年に際して、本土の戦後民主主義はこの人格分裂について徹底的に自己分析すべきです。その結果、憲法9条日米安保が、意外にも「二卵性双生児」だったということになっても、この際、議論を深めるべきです。
 にしても、言うべきことを言わず、なすべきことをしていない。期待された行為を行わないことによって成立する犯罪を「不作為犯」と言いますが、マスメディアもそうではないでしょうか。それが全体として新しいファシズムにつながっていく。今、この国には間違いなく、もう後戻りできないぐらいの勢いでおかしな気流がわいてきています。僕が驚いているのは、沖縄の市民に対する反発っていうのかな、反感みたいなものがほの見えること。彼らは東北の震災についてあまり考えずに自分たちのことだけ言っているといった、そういう発想が最近増えてきているような気がします。これはとんでもない間違いです。同時に、沖縄にも米軍基地反対が言いにくいといった自己規制の空気が生じていないかわたしは心配です。