禁断の森 3  辺見庸

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 たぶんこれはいつか夢に浮かぶだろうと私は思った。

 チェルノブイリ原発の三キロ北西の町プリピャチに来てみた。

 かつては五万人の住む原発労働者の町だった。約八年前の事故で全員が脱出し、死の町になった。風がやむと、心臓の鼓動も聞こえるほど静まり返る。数十棟もの無人の高層集合住宅。コンクリートの壁の宇がいまだ鮮やかだ。

レーニン共産党はわれわれを勝利に導く」

 ぴたりと時が止まったままだ。

「森」という名の無人ホテルがある。隣も無人の文化会館。前庭の石畳に雑草がぼうぼうと生えている。それら二つめ建物に挟まれた空間の、かなり奥まったところに、幻のように黄色い輪がぼーつとかすんで見えた。

 輪はゆっくりと回っているようだ。いや、目の錯覚だった。止まっている。細めの輪郭の、美しい観覧車だった。夢に見るだろうと思ったのはその時、その観覧車のことだ。放射線測定器が二・四五マイクロシーベルトを示した。東京の三十倍以上ではないか。

ガイドのイネッサはここで立ちどまることさえいやがった。車の窓を閉じ、なかから出てこない。このあたりは気味が悪いという。黄色い輪に私は一人で近づいた。

カフェ「オリンピア」の近くの小公園に観覧車はあった。黄色の屋根つきのゴンドラのところどころが錆びている。

一九八六年のメーデーに営業をはじめるべく、新品の観覧車がそこに組み立てられたという。

事故はその年の四月二十六日。観覧車は一度も子供たちを乗せて回転することなく放置された。

子供たちは観覧車をふり返りふり返り逃げたのだろう。

濃い放射線のなかに立ちつくす観覧車。遠くの、病んだ森。八年の歳月は、風景をさほどに清めてはいない。黄色の輪をふり返りふり返り、私は次の村に向かった。

 

原発から二キロ圏内のパリシェフ村。

立ち入り禁止区域だが、高齢者ばかり八十人ほどが疎開先から戻ってきている。私を医者かなにかと勘ちがいしたか、集会場代わりに使っているらしい空き家に、四十人も杖を突き突き集まってきた。

裸電球の下に、生ガキみたいにドロリとした目玉が八十個も並んだ。仕方なく「皆さん、お元気ですか」と私は大声であいさつした。

すると、寝ていた牛たちが一斉に起きあがったように重苦しくどよめくのだ。

「喉が痛いです。頭痛がひどいです。体の節々が痛みます」

 われもわれもと声を上げ収拾がつかなくなった。

澄んだ声などひとつもない。どれも砂をまぶしたようにざらつき、錆びて澱んでいる。

代表格のミハイルに話をまとめてもらう。……二年前にモスクワから学者が来て食品を調べてもらったら、この土地のものはなんでも食えると言った。だから野菜も果物も魚も食べているが、

現在ほとんどの住人の甲状腺が腫れたり熱をもったり、どうもおかしい。疎開先の者も含めると、事故前千人以上いた村人の百人近くが死んでしまった。行政当局からはここに住むなと言われているが、ほかに住むところもない。この世から見捨てられている。どうすればいいのか。

私には正直わからない。で、森のキノコなんかも食べているんですか、と聞いてみる。そうしたら、しゃがれ声の野次が飛んできた。

「ほかになにを食えばいいんだ、ほかに!」

糾弾されても困る。立ち往生である。

「棄老伝説」を思い出した。姥捨山のあれである。

疎開先はどこも物価高だ。若者に比べ、老人は放射能の影響が少ないと、農民たちは信じている。口減らし。立ち入り禁止区域にそうして戻ってくる老人も多い。緩慢な死を待つ。だが、体のこの痛みはなんだろう。泡立つ不安。だれにでもいい、そのことを訴えたいのだ。

私は毛一本ほどの答えも持ちあわせていない。

でも、一瞬でもいいからこの場の空気を明るくしたい。記念撮影をすることにした。前列が座らないと全員が写真に納まらない。座って、座ってと叫ぶ。だが老人たちは口々に言うのだ。

「ひざが痛くて、しゃがめないのです」

そこで昼になった。老人たちは私のために昼食を用意していた。

「緑色のボルシチ」(シャビリという葉を入れた香ばしいスープ)と「サーロ」(豚の脂肪)をごちそうになった。豚の脂肪には「放射能がつかないから」と気をつかってくれる。あんたも、わしらと同じものを食ってるな、という顔で皆がのぞきこむものだから、味は覚えていない。

 

「あの老人たちは、じつは外国から食料援助が来ても食べずに、疎開先の孫に送ったりしている」

 キエフで会ったウクライナチェルノブイリ同盟(事故の遺族、被曝者団体)のアンドレーエフ議長は嘆いた。

 孫との縁をなんとかつなごうとする。夏休みに孫が訪ねてくると、放射線量の高い森のなかの墓へお参りに連れていく、という。

 危ない。しかし、危険地帯の住人はいまや帰還者だけではない。ホームレスや脱走兵も空き家に住みはじめているのだそうだ。人数はつまびらかでないが、最近の傾向だ。その日の命をつなぐために、緩慢な危機を選ぶ。そんな人びとが増えている。

「三十キロ圏に住むのは同盟として反対だ」という議長は、しかし、原発の運転継続には賛成という。ウクライナは全電力の三〇パーセントを原発に頼っている。ロシアとの関係悪化で格安な石油輸入がままならない。エネルギー危機のいま、やむをえない結論だというのだ。

放射性物質を出しているのは事故を起こした四号機だけでない」と言うのは、ウクライナグリーンピースサフラン代表だ。

 原発三十キロ圏の八百力所に事故の際の残骸が秘密裏に埋められており、放射性物質がいまも地下水を汚染している。完全封鎖が必要だという。だが、三十キロ圏でいまも飲み食いしている老人たちのことになると、彼女は両腕を広げて首をふるばかりだ。

「説得を聞こうとしないのよ。仕方のない人たちよ」

 打つ手なし。では、原発とその周辺の完全封鎖のあとはどうするか。

「省エネよ。チェルノブイリ原発は実際には全ウクライナの電力の三パーセントほどしか供給していないのだから」

 代表の声に力がない。多くの工場が操業を短縮、テレビも放映時間を短くし、大学は冬休みを延長して事実上の休校。省エネはすでに実施中なのだが、奏功していない。

 日常とはなんと平穏でそら恐しいものか。

いまひとたびの災厄が、こうしているうちにも、忍び寄ってくる。四号機を閉じこめた「石棺」のコンクリートの劣化が、棺の内部の闇で静かに静かに進行している。ひび割れもまだ完全には修復されていない。このままでは、十年以内に崩壊する可能性もなしとしないという。補強対策はしかし、予算上の制約で足踏みしたままなのだ。

 危険地帯の老人たちは、それでも、ものを食う。食べてその日の命を紡ぐ。

 チェルノブイリの森の沈黙。静止した観覧車。

 風景が黙示しているものの深さ、恐ろしさが、私には見えるようで、まだ見えていないのかもしれない。

共同通信社刊 もの食う人びと より)