神話的破壊とことば──さあ、新たな内部へ  辺見 庸

神話的破壊とことば──さあ、新たな内部へ      辺見 庸

 鈍色(にびいろ)というどすんと重くて冷たいことばを、空がいつもそうだったから、子どものころからからだで知っていた。もともとはツルバミで染めた濃いねずみ色のことで、平安期には「喪の色」であったことなどは、長じておぼえたのである。その空から、はらほろと雪が舞いおりていた。雪のむこうでカモメやトビが意味ありげに旋回していたかもしれない。昼ひなかなのに、空は重く海は暗かった。すべては半世紀まえとおなじであった。静かだけれど油断ならない、どこか剣呑な気配がした。でも、よからぬ兆しはらんでいたというなら、海も空も五十年もまえからそうだったことをわたしは知っている。気配はもうおさえられない感情のようでもあり、玄奥な意思のようでもあった。ただ、こうまでいっぱいにふくらんでいるとは知らなかった。いつのまにかすべての色が消えて風景がまったくのモノクロームになっている。マリオ・ジャコメッリの海の写真みたいに。おもうまに、海がもりもりと巨(おお)きくもりあがり、岸にむかいいったんすそ野のだだっ広い山のようにそびえたってから、全身をひろげて突進しはじめ、なんのためらいもなく陸ふかくまでのしかかっていた。

わたしの住んでいた海ぞいの街が、旧家があったあたりの位置をさがすまもなく、数秒で海になり、もう白く渦巻いている。日和山(ひよりやま)の方向に逃げまどっていたひとびとが、たける波のせいであろう、リリパットの住人のように急にこまかになり、まったくあらがいようもなく波に消された。口のなかで舌がふくらみ声がでないので、わたしはだまって長く絶叫した。映像からはごうごうという野太い海鳴りが聞こえる。見たこともない巨大なけものが腹の底からふきだす、それは咆哮であった。何世紀もまえからこの日このとき、こうなることをおりこんでいたかのように、咆哮は地鳴りの通奏低音にぴたりと呼応し、荘厳に交響した。それを聞いたのはたぶんはじめてではない。子どものころにも、ボリュームこそちがえ唸り声はあったのであり、耳の底に幻聴がまだかすかにのこっている。ただ、あの音と気配は、むかしはたんにしおさいと呼ばれていたのだった。しおさいの底に、2011311日の咆哮と地鳴りがしのんでいたことをわたしは知らず、ただなにかをほんのかすかに予感し、それをすぐにうちわすれるのが常であったのだ。
 友人たちがわたしの生まれ故郷、宮城県石巻市の被災現場からもどってきた。かれらの話と、もちかえった映像は、新聞やテレビのそれとずいぶんちがった。親や兄弟をうしなったかれらは、面差しも音声も変わり、まるで石化したかのように寡黙になっていたのだ。ある者がやっとつぶやいた。「いっさいが整合しない。事実がすべてばらばらになって、ひとつのことがどうも他とむすびつかない」。またある者はひとりごちた。「事実がどーんとたちあがったけれども、それにみあうことばがない。ことばは事実にとおくひきはなされている」。浜辺にうちあげられた死者たちの映像より、神経系統をそっくりひっこぬかれたような友人たちの無表情、すっかり抑揚をなくした声にわたしはたじろいだ。いったい、なにを見たのか。かれらはなんにちも親兄弟をさがしてあるいた。口をそろえていうには、故郷は地震津波の被災地というよりは、まるで大爆撃のあとのようだったという。未編集の映像は、たしかにどうながめても自然災害にはみえない。核爆弾か何十発ものサーモバリック(燃料気化爆弾)でも爆発したあとみたいであった。どうすればそのような造形が可能になるのか、波に押しながされた十数台もの車がおりかさなってガソリンに引火し、つぎつぎに爆発して、しいていえば現代アートのように、そのまま黒っぽい車の塔になっている現場もあった。それはわたしやわたしの妹がかよっていた小学校の校庭だった。塔のなかには焦げた死者がすわっていたという。影たちのように。

 見わたすかぎり、やはりジャコメッリの写真や夢のように、景色は白々とそして暗々と脱色され、深閑として音を消されている。友人たちは腰をかがめ、ひとつまたひとつと屍体をみてあるいた。なんにちもなんにちも。ひとのおおくはたんに部位にすぎなかったから、ひとりまたひとりではなく、ひとつまたひとつと覗くのだ。しかし、ひとつの部位はひとつの浜に、かってそれと一体であったべつの部位はとおくはなれたべつの港にながれていたりして、それぞれの意味と関係性をあかすものはなにもないのだった。部位はただ個別の、さりとて自立もしていないモノなのであり、全体から断たれた部分もしくは欠損したものというそれなりの自己主張や寂寥感さえもはやない。よくよくみれば、部位は部位ですらなく、想像をせいぜいたくましくしても、もとは肉片か腸か耳か脚かと、やっと推量できるほどのむなしいものであったのだし、疲れきったかれらには、どだい想像をたくましくする余力もなかった。母はどれか。父はどれか。伏せた遺体をめくりかえしてみもしたのだが、しっかり正視したかどうかはうたがわしい。こころのうらでは、父や母や兄弟姉妹ではないことをねがいもしていたというから。疲れきって、じぶんがなにをしているのか、ほんとうはなにを乞うているのかもわからなくなった。いっさいが整合しない。地震津波はわたしたちの記憶の中枢を壊したから、事実と想い出とそれらをあかすことどもがすべてばらばらになったのだ。

 きれいな遺体もたくさんあるにはあった。あぐらをかき、ひとりでうすく笑っているようなのもあった。それらから瓦礫や木片をとりのぞき、顔をしげしげと見つめた。うごかすと、ゴボ、ゴキッと、くぐもった音をだすのもあった。関節がほどけたのか肺が空気を吐いたのか骨が鳴いたのかわからない。気絶せんばかりにむなしいだけのそれらの音は、出処をつきとめたところで、この世の真理がはっきりするというものでもない。でも、なにかわかったような気になった。ひとはたぶん、たんなる物体である。唖然とするほどにモノである。ひとはどうじに、たんなる物体ではない。目鼻口肛門といった幾セットかの開口部をもつひとという物体は、内蔵する液や汁やこころを吐いたり、他者のそれらをすいとったりして、なにやらこころ知る生き物のようにふるまいもする。たんなる物体にすぎないことと、たんに物体ではないこと。そして、たんなる物体にすぎなくなることと、それでもたんに物体ではないこと。ふたつのことなる事態のあわいには、しかしながら、ゆるやかにわれわれを得心させてくれる変現のプロセスがあるようでない。大いなる日がきて、はじめて、はっとこころづいたのである。よるべきはなにもない。ひとはある日、ゆくりなくモノになるのだ。(続く) 

文藝春秋2011年5月特別号 緊急寄稿 われらはなにをなすべきか)