置きざりにされた記憶  辺見 庸

置きざりにされた記憶 

                           辺見 庸

 子どものころ、遊び場は家から三百メートルとはなれていない三陸の海岸であった。泳いだ。ハマグリをとった。イシモチを釣った。トンビに石をぶつけた。一回も当たらなかった。砂まみれでけんかした。巨(おお)きな血のかたまりのような夕賜をみた。松林で男女がだきあっているのを息をつめてのぞいた。何時間も野鳥のたまごをさがしあるいた。親指のさきほどのミストグリーンのたまご。みつけると心臓がはれつするほど興奮した。数十年後のいま、たまごはなぜだか、ひすい色に変わって、記憶の宝石箱であやしい光をあげている。家にかえると、母が台所でのびのびと歌をうたっていたものだ。声のむこうでしおさいが低く野太く伴奏していた。「われもまた 渚(なぎさ)を枕 孤身(ひとりみ)の 浮寝(うきね)の旅ぞ……」。わたしはそうとはっきり意識はせず、しあわせで、なんだか不安で、いつも海の気配を、手のつけられないやくざの目の色をうかがうように、気にしていた。ついにきた。

          ◇ ◇ ◇

石巻市南浜町。わたしの感官のあらかたをこしらえたところだ。先日テレビでみたら、昔とおなじ鈍色(にびいろ)の空から、ちらほら雪が舞っていたのだ。と、海がもりもりともりあがり、全身をおもいきり広げて陸へとむかい、息つぐまもなく、南浜町がCG映像みたいに怒とうの下になってきえた。わたしの家があったあたりはみつけるまえに海になっていた。あーつと叫ぼうとしたのだが、喉がつまって声がでない。「椰子の実」の歌声が、地軸が海底にこすれでもしているような絶大な海なりにのまれた。泣こうとしたが、栓がつまったようにやはり声がでない。身もだえしたら栓がぬけて、からだのいちばん奥底から、声というよりからだの音が、ウォーツと口からふきでてきた。泣いたのではない。喉より上でさめざめと泣くのではなく、悲しみと苦しみを臓腑ごとたばねて音にしたこれは「哭」の声だ。海なりの庇に無数の哭の声がしずんだ。記憶が津波にさらわれそうになった。いや、若い日の記憶のあかしがごそっとさらわれて、記憶そのものはひとりとりのこされたのだった。そうなると、ひとは悲しみをひきとる器がなくなって狂おしくなる。

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南浜町は「なくなったよ」という。パソコン画面じやあるまいし、そんなことがあるものだろうか。毎日、親類、級友、知人、恩師らをおもう。どうしても連絡がつかない。つらい。記憶だけが水びたしの廃墟にとりのこされて、存在はなにもあかされないのだ。肝がぎりぎりとしぼられる。もっとあたたかくなったら石巻にいってみよう。南浜町にもいこう。「スナック南浜町」で酒をのもう。そう友人と話していたのだ。友人は近年できたという「スナック南浜町」の、わびしくて店中磯くさそうな写真を送つてきたのだった。中学時代のクラスメイトがママさんをしてるかもしれないし、いってみようや。はじめて恋心をむけた梅川綾子さんは生きているだろうか。わたしの子分役をだまって耐えてくれたかつひこちゃんは助かったのか。日和山から写生した海の絵をほめてくれた仙石先生はどうされているか。みんなしてスナックにあつまって、あんだ老けたね、おらもうとすより(年寄り)だ、と笑いあいたかったのに。スナックはまっさきに津波にのまれたろう。

 ◇ ◇ ◇

毎日ほうけたみたいに廃墟の映像をみている。散乱する遺体と記憶のかけらたち。南浜町の海岸から堤防をへて入江へとむかう小径には、わたしの思考法をいまのようにみちびいたとろけるほどに美しい景色と、それとうらはらな暗い影がいつだってつきまとい、宇宙のすべての愛と憎悪と不条理をすいこんで、昏倒しそうなほどに静まりかえっていたのだ。いまは、もうない。しかたなく廃墟に耳をすます。「椰子の実」は聞こえない。聞きたくないのかもしれない。廃墟からはかわりに「ワルツィング・マチルダ」の合唱が、煙がたちのぼるように聞こえてくる。父が昔よくうたっていた、映画「渚にて」((On the Beach)のテーマ曲。ワルツィング・マチルダ、ワルツィング・マチルダ……。ああ、友よ。

 

日本経済新聞 2011年(平成23年)3月21日(月)