釈尊の聖言 「怒りの供養」

  釈尊の聖言 
 人ありてわれをそしるも、われはいつくしみをもちて、かれを守らん。かれもし重ねてわれをそしるも、われは重ねて善をもちてかれに向かわん。福徳の気は常にここにあり、そこないの気と禍いはかれにあり。
 愚かなるものが、われにせまりてわれをののしる。われは黙して答えず。ののしりの止むを見て、われは問わん。
「おんみは供養をなすに、その人受け入れざれば、いかになすや」
「われは持ち帰るなり」
「われは今、おんみのののしりを受け入れざる故におんみは自ら持ち帰るべし。他をののしりて、おんみが自身を傷つくること、影の形を追うが如く、まぬがるることかたし。つつしみて悪を離るるべし。」
 「怒りの供養」
 もし信仰が、目には見えない神秘な力のある神や仏けを拝んだり、願いごとをしたりするのであれば、ここにあるような、ブッダと異教者との対話など生ずることはない。
 だがこの異教者は、かねて自分が信ずるのとは違う説話をする釈尊が気に入らない。そこで自分の信条を貫ぬくべく問答をしかけにくる。だが怒りの心にとらわれていては、問答どころかそしりののしりを吐き散らす。信仰の心は願いがかなえられれば喜び、期待が外れれば怒りとなる。さて宗教ともなれば、そのような我欲中心を教えられ、人間としての真の在り方を求めるようになる。
 この短いお経によって、修道者の在り様を教えられる。そして人間対人間としての対話によってお互いが鮮明にされてゆく事が教えられる。難しいがまた実に分かりいい道だ。  田辺聖恵