原始仏教講座 第六講(最終講) その十二

第六講 その十二
五、布施をなし、清く行い、親族を守り、非難なき生業に従う、これぞ最上の浄福なり。布施を非常に重視してあるわけです。なぜならば、布施をするということは、自分の持っているものを他に差し上げるということです、だから自分の持っているもの、それが自分の欲望です。その自分の欲望を捨てるということになる。
 日本仏教は欲を捨てよ欲を捨てよ、いくら座禅しても欲は捨てられないんです。ところが布施をするとすぐ欲捨てられる。百円の布施をすれば百円の欲を捨てたことになるでしょ。ところが百円分位までの話は簡単だけれど、じゃ一万円、一万円のお布施できるか。まあちょっとなーとこうなるでしょ。ちょっとなーというのは自分の欲が絡んでいるから、一万円はなーということになるわけです。それはもう欲を捨てられないということ。もしそれだと一万円でも布施が出来るようになった、ああ有難いと思うなら一万円出来るわけです。
 で、この布施をするしないで自己点検が出来るんです。ところが日本の世界は大体論語の世界でずーっときましたからね、論語の道徳の世界で来ましたから、全部ギブアンドテイクなんです。だから百円の品物に百円払ってもらう、ということです。これは布施ではないわけです。百円の品物に二百円だした、私は損したとなるわけですからね。百円の品物を百円払うということは等価交換です、これは布施ではない。布施というのは何かをしてもらったから差し上げるというんだと、それは等価交換、労働報酬になる。
 お経あげてもらったからお賽銭を包む、それにお布施と書く人あるんです。お経あげてもらってお布施と書く人があります、そしたらそれお布施ではない。お経の読み賃なんです。だからお布施と書いてはならない。ところがそういうこと習っていないから、習うって坊さんが言わないから、信者さんの方は分らないわけです。お布施という言葉は知っているものだから、お布施と書いてしまうわけです。だけどそれはお経の読み賃ですから、労働報酬と書かなければならない。そうすると坊さんこつんと来る、だけどこつんと来るように少し風を起さなければならない。という話を私がしているわけで、実際にはしないで下さい。誰がそういうこと言い出したかという事になる。