釈尊という事実の仏けさま

「釈尊という事実の仏けさま」

法によって静まる信仰
 一切に超越し、一切を救うという如来さま、仏けさまを聞いてこられた方々は、ここに掲げられた生ける日の釈尊(シャカムニ世尊)の日常を聞いて、あまりビンとこないであろう。どちらも同じ仏様であると云われても、両者の結びつきを感じとることが出米ないのではなかろうか。三宝聖典 第一部 第五十五項 ブッダの日常
 前の仏様は、後期に仏けの性質をよくよく追求してその理想を打ち出したものである。後の仏様、おツヤカさまは、事実としてインドに出現された方である。現代の用語を使えば、絶対者−理想の仏け、絶対を悟られた事実の仏けの違いと云うことになろうか。一般には絶対というコトバは有難い、最高といった意味合いに使われているから、誤解する方が有難いということにもなろう。
 理想者というか、絶対者としての仏けさまを信仰するにしても、一度はこの事実存在としてのおシャカさまという仏けさまのあり方を知ることが必要なのではなかろうか。かっては、この事実としての仏けさまは日本では語られることは、ほとんどなかったのである。それでも鎌倉時代以降、仏教が大衆の線にまで広がったのだから、結構であったのだが、今日はどうであろうか。僧職に対する批判はいろいろ耳に入るが、仏さまそのものへの信仰も理解もまことにあやふやである。
 その点を今日、仏教としては反省する必要があるのではなかろうか。勿論、理想者としての絶対の仏けさまに対する信仰をすでに持つておられる方には、以下の考察は全くといってよい位、無用であろう。
 さて、事実としての仏けさま、おシャカさまは、一体日常生活はどのようになさって居られたのであろうか。原始経典(アーガマ)は、ブッダ釈尊を神秘化したりせず、ありのままに伝えようとしている。それでも最低の飾り立てがなされている。三十二の大人相というすぐれた容姿を数えあげることによって、有難さを現わそうというのである。しかし、もう少し考えてみると、精神的指導者としての特徴を現わしていることが分る。「手足の指長く、柔らかにして水かきのごときあり」というのは、肉体労働などをしていないことであろうし、「身は金色の光り」というのは、晴れ晴れとした精神状況が皮膚の色つやとなっていることを示すと云えよう。み声のなごやかさ、よく聞える−などは指導者としてのいわば第一条件でもある。つまり単なる飾り立てでもなく、宗教者としての最も望ましい状態を云っていると見るべきであろう。
 次いで生活ぶりであるが、決していい加減なものでなく、それこそキチンとしていて、しかも虚勢、虚飾といったものがない。気品に満ちているが、しかも淡々としておられる。これはいわゆるお祭りといった特別行事などを持たれないからであろう。これは本部などを持たれなかったことと関係がある。そして、このような淡々としたあり方は、後の一般信者にとっては、何かもの足らないものに感じられたに違いない。今日の日本人の信仰状況を見ると、お祭りや観光をかねた寺院めぐりなどには参加するが、かねてには忘れているといった程度のものが多い。釈尊は、神さまの信仰は「祭りといけにえを説く」として、仏教は静かな覚りを中心とするものとなされた。

 托鉢をなされる仏けさま
おシャカさまも毎日、托鉢に出られたのである。それは宗教者としての厳粛な行事、信者としての機縁づくりであった。この托鉢による食事を通して宗教の正導がなされたということは、そこに親密な一対一式の対話による指導であったことを意味する。お経をあげて礼拝して、といったいわゆるお寺さん式の行事が先行したりすることはない。食事と指導、ここにギリギリ必要なことだけが行われていたのである。これを今日風に考えると、宗教的全人格をもって当たられたということになる。人間は食事の時に、その生地そのものを露わすものである。むしろそのために会食するということが多い。宗教者が、こうしたぎりぎりの所で指導する、一切の舞台装置や金ピカの衣で自己を覆いかくすということをぬいてということになると、一体何人の僧侶がこれをなし得るであろうか。
 そして最も重要なコミュニケーションの手段として、対話正導の様子が語られている。まず第一に法を説くということ、それが中心であるが、その説き方が八種の音声であるという。
 一、すずやか ニ、明僚 三、美しく 四、なごやか 五、充実 六、分かり易く 七、深く 八、博く
 ここで注意を要するのは、一般の信者に対しての正導であるから、特に静思やサマーディの行法については述べられないということである。ましてや病気直しの祈祷とか、商売繁昌のためのお祈りなど全然ない。人間としてのよりよき宗教的あり方についてのみ正導されるのである。今日の日本の新興教団が何百万という信者を動員するといった熱狂方式ではない。これはやはり信者の質が高くないことには成り立たないことだ。
 右のような対話方式は、一体何を根底とするのであろうか。釈尊の仏教は、法を中心とする。法は理解されるべきものである。従って対話が手段となるのは当然。法を説くためには、慈悲の心がなければならない。それは食事のためや、お寺の維持費のお金を集めるといった目的でなく、ただ全く法を説くのであるから、ホンモノの慈悲心がないことには出来ない。
 法があることが大智、教え導きたい心が大慈悲心。この智慧と慈悲が二大根底ではあるが、対話も実は単なる手段とは云えないようである。対話をなされたのは、釈尊という仏けさまが肉体、コトバをもって居られたからである。ここをもう一つ哲学的に考えると、コトバと知恵は実は同じものだと云うべきである。肉体、コトバ、理性なくして知恵は成立しない。肉体があるから真理を悟られ、その真理を導くという仏けさまになられたのである。釈尊という肉体がなかったならば、仏教はこの地上に現われていないはずである。少し面倒な説明になるが、肉体があるから、肉体の法則、縁起の真理があり、真理があるから、悟ることが出来たのである。
 私たちは、肉体をぬきにした理想や、理想の仏けさまを考えやすいが、ホンモノの仏教となるためには、真理、知恵と肉体とが、完全に別物という二元的発想を止めねばならない。このことは一見、有難さを捨てることであるから、恐らく最難関ということになろう。当り前のことが有難くなるということにゆきつくのは、その次の段階であるから、それこそ、まことにありにくいことである。神秘化をくぐりぬけた上で、本当の仏様にゆきつくことは、それこそ一生をかけねばならない。
 四十五年間、旅から旅にゆかれ、野宿し、托鉢し、自らを教材として提示され、誰でもが自身の中に今、現に持っている真理法を気付かせようとなさった、事実存在としての釈尊、そこに本当の仏け様が居られたのである。この仏け様を重ね合わせて理想の仏けさまを信仰出来る時に、その信仰は、まことの仏教による信仰となるであろう。

三宝 第103号 1982年4月1日

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