釈尊の聖言 「慈心の定」

釈尊の聖言 
「ビクらよ、指をはじく間にも慈しみの心を修め、増し、念ずるなれば、そのビクはうつろならざる禅定に住し、師の教えを奉じ、万人の施を受くるに値いするものと云わる。いく度びも行うものはなお更なり。
 ビクらよ、いかなる不善の法も善の法も、みな心を先導となすなり。」  
   「慈心の定」
◎慈心なき仏教はない−仏教書によると、小乗仏教は自分の覚りだけを求めるからいけない、利他の心を持つボサッにならねばならないと。まさにその通り。釈尊はそのお弟子に、他を導き救おうとする、慈悲友情の心を起すような本当の、心統一、修行をせよと命ぜられる。それが師の教えを伝承するものだという。そうすることで、一口に一食の施こしを受ける資格が出来てくる。お経をたゞ読誦して報酬を貰っているようでは、師教をドブに捨てるに等しい。
◎己の心を主とする−すべて運命とか、環境に原因があるなどという云い逃れをしないのが仏教である。善を行うも悪を行うも己次第というのだから、このように厳しい宗教は他にあるまい。そこでは祈りすら弁解に近いものとなる。しかし一方、己の心次第で悟ることも出来るのだということはこれまた何という寛大な道であろう。
 云い訳が尽き果てた時、広々とした大道万人の道が見えてくる。その心が身の大切さに思いつかせてもくれる。有難い限り。

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