原始仏教講座 第三講 その十一

第三講 その十一

これは修行者にとって、覚った人は矢張り信者さんから丁重に扱われますよね、当然。だから覚っていないのに覚っていると言うのが実はうその内容。仏教でうそは言ってはいけないというのは、覚っていないのに覚ったと言ってはならないというわけです。覚ったなら覚ったと言っていいわけです。日本仏教ではこういう話がない。何々の管長さんという偉い人がテレビに出られる、「私どもは一生修行ですから」というわけです、修行というのはプロセス、管長さんが途中と表現される、謙遜で言われるのでしょうが、管長さんが途中なら弟子は途中の途中になるわけで、信者さんはもう途中どころか入り口にも行っていないとなって、全然行き着いた人がないというのが日本的仏教の表現なんですね。

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