「在家信者と先祖供養」 幸福の道

「在家信者と先祖供養」

幸福の道

では一般の信者は、はたしてそういう道を求めるであろうか。ごく少数の熱心な信者、求道者はその理想の道を歩むであろうが、一般は、やはり幸福を求めるものである。

そこで釈尊は、現実の大衆信者と直弟子との指導の方法を分けて、信者には、幸せを主とし、人間の価値実現(理想)の方を従とした、業報・三論つまり次第説というものを説かれた。そして一部の自ら環境を調え心の進境が著しいものには、出家修道者と同じような理想への道をすすめよと正導されたのである。

従って信者というものは、絶対を求める修道生活の厳しさをある程度見聞して、已が出来るかどうかを確め、今それが出来ないなら、それらの求道者達(サンガー正統な修道者の集団)を信頼しつゝ、己に合わせた道を歩むことである。欲望生活をしながら絶対の境地が得られるといった甘やかしの仏教論、あるいは自已流の解釈によって、自他を堕落させたり迷わせたりしてはならない。浄土門を誤解する人がある。愛欲に溺れながら救われるのではない。それを恥ずかしいとするので、それでよいと肯定するのではない。

信者の道は、幸福や愛欲を否定するまでにゆけないところにある。自分が今どのような段階にいるかを確めることが大切。

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