松のほまれ 松尾多勢子 第七

   第七 刀自情報に接して上京す

当時刀自は、その郷にありしが、志士より時勢の急なるを告げて、上京を促すこと頻繁なりしかば、これを夫淳齋に語り、かつ国事の忽にすべからざるを以てせり。淳齋またかねてより、勤王の念厚かりしも、平素多病の身、自から起つ能はず、されば、今刀自の上京を乞ふに当りては、一時も猶予すべきにあらずとなし、快よくこれを承諾しければ、刀自は大によろこび、旅装もそこそこ、立ちいでぬ。途すがら産土の社に詣で、

  千早振神にいのりてたびころも
     かへりこん日を契りつゝゆく

と一首の歌を詠みて、その懐を述べけり。 かくて、飯田を経て、大平峠を越え、木曾路にさしかゝりしが、この地は、名にしおふ難所のこととて陰雨蕭々、咫尺を弁ぜざる程なりしかば、

  涙せく旅ならなくに今日はまた
     かゝる雨にもそでしぼりつゝ

と詠じ、五里にあまれる、山路の困難を、物ともせず、たそがれ時、つひに広瀬の駅につきぬ。かゝる大雨を突きて、大平峠をこゆるが如きは、男子もなほ難ずるところ、而かも女子にして、敢てこれをよくす、この一事によりても、刀自の勇気の、なみなみならざりしことを、知るに足るべく、この勇気ありてこそ、慷慨義憤の志士に打ち交りて、王政復古の大業を唱道するを、敢てせしなれ。
かくて、刀自は日を経て、美濃路に入り長良川を渡るとて

  長らへてまたも越えなん長良川
     にこらぬ水にこゝろまかせて

と、その懐を述べ、文久二年の九月十四日といふに、やうやく京都につきぬ。
 
                        た  せ  子
  御代のため思ひの外にうきめみし
     なみだの袖やいまかはくらん

(松のかほり 清水謹一著 公論社刊より)