中岡慎太郎と龍馬暗殺 #4

薩摩藩黒幕説」


多くの研究者が取り上げ、主流ともなっている説である。

それは、蜷川新(にながわ あらた)博士による『維新正観』にて「・・・この日坂本龍馬暗殺の報を聞き、土州人中島信行は現場に駆け付け、旅館の女中に向かい、その折の様子を尋ねてみた。その女中は密かに『暗殺人は逃げ行く際に、二つ三つ私語したが、それは確かに鹿児島弁の音調があった』と答えたと言われる・・・」といった事由を発表した所から来ている。中島信行海援隊士で、後々にも身近な者に対して、同じように語っていたという。

これは重要な証言だとも言えるが、私は薩摩藩暗殺説を否定する。当時の暗殺に於ける常套手段としては、現場の遺留品などに、他者へ濡れ衣を被せるような事が、当たり前のように行われていたので、もし、この証言が本当ならば、私には暗殺者達が、わざと鹿児島弁を言ったように思えて仕方が無い。例えば、姉小路公知暗殺事件は、現場に薩摩の田中新兵衛の刀が放置されていた。逮捕された新兵衛は犯行を否認していたが、現場に落ちていたその刀を見せられると、驚いた顔を見せ、遂に切腹をしてしまった。薩摩藩に利害が及ぶ事を避けての行動であったろうが、新兵衛が真犯人であったなら、自分が落とした筈の刀を示されて、驚く筈はない。一説には、朝廷が島津久光に上洛と治安維持を命じており、薩摩藩の介入を嫌がる尊王攘夷派による仕業といわれている。いずれにしても、わざと薩摩藩の仕業にしたかったのであろう。実際、事件後、海援隊士は薩摩藩邸に詰め寄り、事件に関わったかどうか問いただしている所からも、女中の証言とは別に、龍馬と薩摩藩の関係が微妙である事は、以前から広く認識されていたようで、それを犯人が利用したと考える事が出来る。

龍馬暗殺の現場にも、新撰組原田左之助のものらしい鞘が落ちていたり、新撰組のよく使っている先斗町の料亭「瓢箪(ひょうたん)」の下駄が落ちていた。このわざとらしい遺留品は、当然、新撰組のせいにする為なのだが、公務で実行した見廻組が、なぜに新撰組のせいにしようとしたのか? これは大政奉還後という事もあり、龍馬が政府要人と親しかったという事も有り得るが(公務ではなく私怨であったという説あり。寺田屋事件に於いて、龍馬は二人の捕り方を銃で撃って死なせている)、黒幕の意向でもあり、更に撹乱させる為、鹿児島弁を使ったのではないかと勘ぐりたくなるものだ。つまり、犯人は、新撰組や鹿児島弁を使う薩摩藩以外と考えるべきなのである。

ただし、この女中の証言も、確かなものかは定かではなく、事件直後に駆けつけた関係者の中には、「近江屋の家人は皆逃げ出していて、誰も屋内にはいなかった」という証言もあり、そうなると「暗殺人が踏み込んできた際に・・・」であれば納得がいくが、「暗殺人が逃げ出す際に・・・」という証言は、信憑性がなくなる。いずれにしても、どの証言を信用するか否かで、事件の真相が変ってくるのだが、本筋として黒幕が特定された時、捨て置いてもいいような証言のような気がする。近江屋家人からの証言は、とかく矛盾する事が多すぎ、取捨選択に苦労するともいえる。

確かに薩摩には、龍馬を消したい理由が、大政奉還前後からかなりあった。しかし、中岡を消す理由は全く無かったのである。むしろ、中岡の死は痛手ですらあった。大久保利通岩倉具視も、書簡にてその死を悼み、速やかに犯人を捕らえるように促していたし、武力倒幕派であった中岡を通して、陸援隊や土佐藩板垣退助らの派兵を、当てにもしていたからである。大体、当日、近江屋の母屋に(この日だけ母屋にいた。それ以前は近江屋の土蔵にいたのだ)龍馬がいる事を知っていた薩摩藩士がどれだけいた事か疑問である。それに、近江屋に来る前は、酢屋に潜伏していた龍馬だが、そこに幕士がかなりうろついていた為、危ないから土佐藩邸(薩摩藩邸ともいわれている)へ移るようにと、忠告していたのが西郷であった。それを聞かず、藩邸が窮屈だからと近江屋に移ったのは龍馬自身だったので、いわずもがなである。
当時、薩摩で主に暗殺を請け負っていたのが、人斬り半次郎こと、中村半次郎桐野利秋)であり、当然、薩摩が龍馬暗殺を実行するとなれば中村半次郎が実行した事だろう。中村は龍馬とも親しく、当然顔も知っているので適任である。

だが、こういう話がある。中村半次郎は以前、土佐の後藤象二郎を薩摩の為にならずとして、西郷に黙って暗殺しようとした。いざ斬りかかろうとしたら、薩摩の提灯を後藤が持っていたので、暗闇の中、西郷本人だと勘違いをし、慌てて取りやめた。西郷は後藤を大人物として、暗殺しようとした中村半次郎を叱りつけたという。確かに、西郷の為と思い、勝手に暗殺を実行しようとする傾向が、中村半次郎にはあった。しかも、西郷は龍馬暗殺時、京都には居ない。だが、現場に中岡が居合わせていたら、当然驚いて引き返してしまうと思うのだ。もしくは、その場をなんとか取り繕う筈だと思うのだが、暗殺は実行された。たとえ、中村半次郎ではなく、他の薩摩藩士が暗殺を謀ろうとしても、中岡がいたら決して実行はしなかったであろう。中岡も龍馬も、薩摩藩とは当然関係深く、頻繁に出入りをしていたので、大抵の薩摩藩士は、二人の事をよく知っているからだ。

繰り返すが、薩摩藩にとって、中岡を消す理由は一つも無いし、むしろ薩摩にとっては龍馬よりも重要な人物である。しかも事件後、中岡は「最初に自分の方へ襲い掛かってきた」と言っているのだ。

それ以外でも、前述した「今井信郎裁判」で、近藤勇の尋問を薩摩藩が反対したという事実などは、実行犯が新撰組で、薩摩藩新撰組が何かしら関係を持っていたとしたら、確かに怪しいと見られるが、実行犯が見廻組ならば別段関連がない。何より、新撰組が暗殺を実行したとすれば、隠したり否定したりはせずに、その性質からも大宣伝をして自慢するであろうが、そんな話は一つも出てこない。

西郷が今井をかばった件でも、薩摩藩が黒幕で、今井が暗殺に関わったからだとしたら、今井をかばおうとはしないと思うのだが・・・。むしろ、証拠隠滅に走るか今井を無視するかの、どちらかに走ると考える。或いは、最後まで今井が黒幕を知らないとして、黙秘してくれたから、西郷がかばったというなら、むしろ、のこのことその黒幕が顔をだしてくる訳がないのである。西郷は巷で知られているよりも陰謀家であったが、薩摩藩が権力を誇示したで維新後でも、新政府としては旧幕府の有能な人間を取り立てた。

榎本武揚などがいい例である。そういった事例を見ても、西郷が今井をかばったという家伝がもし本当であるならば、別に何かしらの理由があったと考えた方が妥当であり、根拠にならないと思われる。それに、今井伸郎が裁判にかかったのは、明治三年の事であり、その裁判証言では「見張りをしていただけ」と供述しているからでもあり、後に、私が龍馬を斬ったと記事になった時は、明治三十三年であるから、時系列を考えれば、西郷が今井を暗殺実行者として認識していない事が分かる筈である。

龍馬暗殺ばかりに目が行き、中岡の存在をおざなりにしているから、薩摩藩黒幕説などが出てしまうと考える。
(つづく)


「詩集アフリカとその言葉達」より転載
http://tjhira.ld.infoseek.co.jp/nakaoka.htm


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