属国であり、俗国である日本 人間としての生きる道を模索しない国民は怖い 世相を斬る あいば達也

2013年01月04日 
 久々に小出裕章氏の講演をネット動画でジックリ聞いてみた。たしかに彼の主張は正しいのだろう。ただ、目の前でコロコロと死人の山が目撃されていない現実が、彼の主張は“誇張”ではないかと云う疑念が頭をもたげる。筆者の勝手な解釈だが、小出氏は福島原発事故による放射能汚染を、誇張解釈している可能性はある程度あるような気がする。勿論、その誇張が、日本の政府や東電や原発村の学者たちが主張し、説明する放射能による国民の人体への影響度の“矮小化”に比べれば、非常に小さな誇張である。 

 日本が法治国家の装いをしながら、実は法治国家として、誠実にその理念を実践しているかと云うと、これは驚嘆するほど誠実に守られていない。被ばくに関する数値も、放射線業務従事者にしか適用しない法律だから無視しても構わないそうである。つまり、年間被爆限度は50ミリシーベルト(かつ5年間で100ミリシーベルト以内)と云う特殊な仕事に就いている人々の安全基準より大雑把な規則(明確なものではなく内規状態)で子供でも年間20ミリシーベルトまでOKとしている。政府に至っては、「年間100mSv未満の被爆は直ちに健康に影響するものではない(大丈夫?)」と言っている。 

 例としては適切かどうかわからないが、1万円までの窃盗は、刑事罰を科さない、と規定した法律のように思えてくる。つまり、万引き程度は窃盗の類に入れません。窃盗金額の5倍の罰金を払えば、科料の措置にて1件落着と言われている錯覚に陥る。電車内で、腕を触る程度は痴漢にあたらず。乳またわ腿尻等に触れた場合を持って迷惑防止条例違反乃至は強制わいせつ相当とする。以上、近時の通勤事情から推量り、実情の許容範囲を定める。てな具合を想像してしまう。規則が実情を勘案し、その都度基準値を変更すると云う事は、上述のような問題でもある。 

 このような理不尽な理屈を通用させたのが、今原子力対策特別措置法に基づく、「原子力緊急事態宣言」を発令である。この発令により原子力災害法が適用され、年間100ミリシーベルトでも、健康に影響ないと云う言説を作り上げた事になる。このような出鱈目極まりない内規を被ばく地に適用した一番の理由は、まともな神経で誠実に被害者に対応したら国家が潰れると計算した結果だろう。厳しく算定(チェルノブイリ基準)すれば、13,782平方キロメートル近い土地が放射線管理区域になるので、そんな気の遠くなるような指定は出来ないと考えたわけである。 

 ほぼ福島県の面積同等の国土が居住に適さないと宣言すべきだが、当時のソ連邦の国土の広さに対する価値観が、日本と桁が違っているからと云う強弁まで聞こえてくる。このような事態に、自国領土の大きさで基準を変えられたのでは堪ったものではないのだが、経済優先の国策においては、このような発想が生まれる土壌は存在する。なにせ先の大戦において「本土決戦、1億総玉砕」と軍部の人間が真面目な顔で叫んでいたのだから、この程度の決断は易々と行われたに違いない。 

 数字的には少々曖昧だが、10億年前に太陽のエネルギーを利用して光合成する細菌が生まれ、この細菌が酸素を産みだし、その過程で地球を取巻くオゾン層が出来あがり、地球に降り注いでいた紫外線や放射線の力が弱められた事で、海に生きていた植物が陸に上がり、最終的に陸上生物に至った話を思い出した。 生物の苦難の進化過程における壮大なドラマに水を差しているのが、人間が敢えて作り出した原爆、核燃料であるとするなら、なんと愚かな行為に走ったものか、考えただけで十二分に誤った考えである。 

 人類の歴史が400万年前と設定した場合、イギリスの産業革命を一気に花開かせたジェームズ・ワットの蒸気機関が発明されてから、たったの200年しか経っていない。つまり、10億年、400万年と200年の価値の軸足をどちらに置くかで、その人々の選択は異様な違いを見せるのだろう。近い年代に価値観を見出す人が殆どだろうが、本当にそうなのだろうかと筆者などは考える。海にしか棲んでいなかった我が人類の祖先が、放射線を遮るもののお陰で、地上に立つ事が出来た事実を考える時、気持は酷く複雑になる。 

 中村桂子氏が21世紀は「機械と火」ではなく「生命と水」が大切な世紀にしなければならない、と言っていたが心にしみる。あまりにも当たり前すぎて、気づかず、感謝もしない「水・空気・生命」なのだが、たかだか200年程度のお湯を沸かして歯車を回す技術に、400万年の歴史を委ねて良いのか、と云う問い掛けでもある。こんなことを書くと、筆者が偉く律儀な生活信条で生きているのかと問われれば、まったく逆さまな生き方をしている。傍若無人にして無頼の生活だ。しかし、人間の根源に関わることは別だろう。 

 正直、己の生活がいかに倫理や道徳や信仰心などから離れたところにあるとしても、それこそ社会においては極悪人であろうと、植物や動物の存在の根源に関しては真摯でありたい。今回の福島原発事故は、幸か不幸か直接的死者が出なかった。この奇禍が放射能汚染の影響を矮小化出来る根拠になっているのだろう。例え一人でも犠牲者が出ていたなら(公式に)、このような欺瞞に満ちた落とし処は見つけられなかっただろう。政府も東電も学者連中も、胸を撫で下ろし、且つ幅広い権益を生みだす装置の維持に血道を上げはじめている。 

 安倍晋三は、噴きだすよな“安全な原発”を作れるなどと、忌まわしき言説まで口走るわけで、本当にお馬鹿なお人だと思う。我が国の首相と云うのは、お馬鹿でないと務まらない職責なのかもしれないと、本気で考えてしまう。それにしても、多くの人間が未だに原発が最も安上がりな発電手段と思い込んでいるのは不思議だ。最近、筆者はマスメディアの領域だけ障壁なきTPPの導入は出来ないものかと考えてしまう(笑)。それとも、核爆弾作りそうな危ない国だから、あの国からプルトニウムを剥奪してしまえ!と国際世論が盛り上がらないかと夢想する。国連安全保障理事会で敵国の核の保有は全面的に禁止するでも構わない(笑)。これは9割以上冗談だが、そんなことにまで考えが及ぶほど、日本の思考は俗的過ぎる。