小沢支持と云うことは、マスメディアを敵に回すこと 割り切る精神の強さを  世相を斬る あいば達也

 毎日新聞がご丁寧に社説まで駆使して“小沢一郎抹殺報道”に余念がない。時事通信にせよ、読売、産経にせよ、兎に角、小沢の一挙手一投足がネガティブ報道の対象なのである。先日の拙コラムも言及したが、マスメディアは“ネガティブ小沢番記者”を待機させ、1ミリ足りも小沢一郎の政治行動を容認しないと心に誓っているのだろう。腹立たしい怒りも憶えるが、報道と言論の自由の範囲を逸脱しないギリギリの線上を歩いているようだ。 

 今回の毎日新聞の社説においても、毎日の報道機関としての小沢や嘉田の実際の行動に対する解釈であり、法的に名誉棄損に当たる部分は少ない。敢えて、名誉毀損となり得る部分は最後の章「 それにしても小沢氏は一体、何度、政党を作っては壊すのだろう。 政党は自らの権力闘争の道具であっていいはずがない。政治家が生き残るための選挙互助会であっていいはずもない。衆院選での未来の敗北は有権者の多くがとっくにそれに愛想を尽かしている証明でもある。まずそれに気づいた方がいい。」の部分だろう。未来の党に投票した全有権者の意思確認でもしたような勝手な解釈と、小沢一郎の政治活動妨害に該当するかもしれない程度だ。 

 小沢一郎のやることは、法的に正しくても、悪事であると云う論法がまかり通ること自体、本来のジャーナリズムとは異なるわけだが、日本のマスメディアが既得権益内で生きている以上、不偏不党の解釈などする筈もない。まして記者連中にリップサービスしない政治家が忌み嫌われるのは、既得権益内で生きているマスメディアにとって当たり前のことなのだろう。吉田茂佐藤栄作なども記者に嫌われていた。マスメディア記者連中の思い上がりなのだが、マスメディアが存在する限り、永遠に続く公正公平無視報道なのだ。権力者の多くが、多かれ少なかれマスメディアのネガティブ報道姿勢の洗礼を浴びるが、小沢一郎の場合、マスメディアの天敵と云うアイデンティティが称号のように与えられているのかもしれない。 

 今回の未来の党に纏わるあい前後したドタバタの経緯は、彼らにとって小沢を叩くには最高のシチュエーションだったのだろう。この餌に飛びついたのが毎日新聞だけだったのが、せめてもの慰めくらいに受けとめた方が賢明だ。今回の騒動で、最も距離を置いて報道していたのが朝日だ。最も下品に小沢を貶めようとしたのが、時事通信毎日新聞だ。詳細は忘れたが、三宝会の影響が色濃く残っているのだろう。ただ、腹を立てたからと云って、どれ程吠えてみても限界がある。まぁ毎日新聞の社説なら、ネットメディア読者より少ないだろうから(笑)、特に重大とも思えない。 

 筆者の主張するように、生活の党が中心になり、独自の切り口でニュース報道するツールが欲しい。旨くコンテンツを企画すれば、読者投稿を通じて、個別の報道機関への反論なども可能になるだろう。正直、人の悪口を言わない家訓があると言っても、自ずと限界と云うものがある。敢えて、相手への誹謗中傷は忌避するにしても、理路整然と、ことの顛末を正しく伝え反駁するメディア媒体は必要だ。殴られっぱなしは、どう考えても理不尽だし、支持者の心も荒んでくる。生活の党はこの部分をもう一度深く考えて貰いたいものだ。資金的ひっ迫も容易に想像できるが、有料情報だけで政党活動をケアするのでは、根っからの支持者だけの拡散機関となる。 

 ところで、毎日が言うように、日本未来の党の嘉田と阿部が政党交付金をすべて握ったら、毎日新聞は御満足なのだろうか?生活の党の議員たちが、権利を放棄したら、綺麗な引け際だと褒めるのだろうか?その時、嘉田や阿部は慾深と言われないのだろうか?1対15の議員数で、1が独占するのがお好みなのだろうか?毎日の論説員の常識こそ疑うべきである。いつまでも聖教新聞の仕事があると思わない方が良い。 

 そもそも、政党交付金と云う法律自体些か可笑しな法律だ。国家予算で政党に助成金を支払う等と云う事は、本来あるべきではないだろう。企業・労働組合・団体などから政党・政治団体への政治献金を制限する代償として1994年に成立した法律なのだが、政党要件で政党に制限が加えられているのが奇妙である。国会議員数が5人以上という条件か、直近の国政選挙の選挙区総計か比例代表総計のいずれかで2%以上の得票率という条件を満たす必要がある。このような条件を加える必要などない筈だ。 

 上述の政党要件を満たす為に、政治家が大義名分を無理やりひねり出し、離合集散するエネルギーは茶番である。政党交付金制度は、国が政党に対し政党交付金による助成を行うことにより、政党の政治活動の健全な発達の促進及びその公明と公正の確保を図り、もって民主政治の健全な発展に寄与することを目的とした制度だとしているが、国会議員一人の政党が存在しても良いわけで、法律成立当時とは異なる考えが生まれ、はじめは一人でもその後増えて行く芽を摘む制度でもある。議員の自由な政治活動、新しく作る政党活動を阻害している部分もあるとのが事実だ。 

 新たに立ち上げた政治理念の政党が、端から不公平の中で政党活動をしなければならないのは、理不尽とさえ思われる。大きな政党が補助金を貰い、極小政党は、泡沫と看做され不公平な土俵で闘わざるを得ないのは、不条理である。いやしくも、国会議員が一人誕生するだけの民意があった場合、その政治家が平等の扱いで、国政に関与する土俵を提供する事こそ、民主主義に資するわけで、一定の頭数が揃わない間は、不利な条件で政党活動を行えと云うのは、民主主義の平等の精神から逸脱している。 
2012年12月30日