小沢叩きに終始したメディアの責任  天木直人

 小沢新党の結成によって政局はあらたな局面に入りつつある。

 それはさらなる政治の混迷だ。

 迷惑をこうむるのは国民だ。

 メディアは国民に代わって、既存政党、政治家たちに、国民のための安定した政治を一刻はやく実現するよう求めていかなくてはいけない。

 それにもかかわらず、メディアはいまでも小沢一人を悪者にして小沢新党を叩く。

 やれ国民の支持率は低い、

 やれ政策が明確でない。

 やれ選挙目当てだ。

 やれろくな人材がいない、などなど。

 ならばメディアに問う。

 メディアがどの政党が、どの政治家が国民の為になるというつもりか。

 どこの政党が国民の支持を得ているというのか。

 選挙目当てでない政党があるのか。

 マニフェストを捨て、政策綱領をいまだつくれない野田・輿石民主党が政権にとどまることが国民のためだとでも言うのか。

 自民党がよくなったとでも言うのか。

 自・民・公明の大連立がいいというのか。

 それとも橋下維新の会に日本を任せろとでも言いたいのか。

 決してそうではないだろう。

 政治がここまで混迷したのはもちろん既存政党、政治家の責任だ。

 しかし総ぐるみで小沢排除に終始したメディアの責任もまた大きい。

 国民の側に立って権力を監視するというジャーナリズム精神を放棄し、国民の知る権利に応えることなく偏った報道を繰り返し、そして何よりも自分たちが権力を動かすという驕りにおぼれたメディアこそ日本の政治をここまで劣化させたのだ。

 いまメディアはそんな自らの誤りに首を絞められている。

 
 政治記事が本当につまらなくなった。

 書くことがなくなったのだ。何を書けばいいかわからないのだ。どの政党を応援したら良いのか、途方にくれているかのごとくだ。

 これでは国民がメディアに愛想をつかすのも当然だ。

 しかし、この混迷は考えようによってはいいことだ。

 政治の混迷を一つのチャンスととらえ、メディアもまたジャーナリズムの原点に戻るべきである。

 メディアがその事に気づくなら、政治の混迷もまったく無意味ではなかったことになる。
                                         了
2012年07月12日