「小沢一郎政治裁判を許すな」国民大集会に行って来ました。 文藝評論家・山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記』

昨日は、日大芸術学部の授業が6時過ぎまであり、授業中終了と同時に、江古田から池袋、池袋から丸ノ内線に乗り替えて、お大慌てで会場の「文京シビックセンター」に駆け付けた。「小沢一郎政治裁判を許すな」国民大集会に参加するためである。僕も、壇上に上がり、簡単なスピーチをすることになっているので、遅れるわけにはわけにはいかないのだ。ところが、丸ノ内線を使うと後楽園駅前の文京シビックセンターは意外に近く、6:30過ぎには会場についた。僕が着いた時には、すでに入り口には人が溢れていた。「小沢一郎政治裁判」への関心の高さを表している。特に女性が多いのには驚いた。 とりわけネット情報で集まった人が多いらしく、何人もの人に、「ブログ毎日見てます」と声を掛けられた。最終的には千数百人が集まったらしい。ネットの登場で、やはり時代は大きく変わったと思わないわけにはいかない。大手マスコミが正確な情報を伝えないにもかかわらず、これだけの人が溢れるということの意味は大きい。最近の裁判は、裁判員制度検察審査会制度の導入が示すように、国民大衆の感覚や目線を重視する傾向にある。おそらく、小沢一郎裁判もそうだろう。ということは、昨日のような「小沢一郎政治裁判」批判の大集会の存在を、裁判官もマスコミも無視、黙殺はできないということだ。もし、こういう国民的大集会や頻発するデモの存在を無視して、「不当判決」を出すようなことがあれば、「火に油を注ぐ」ことになり、裁判官も、これまでのように安泰ではいられないだろうと思われる。「田中角栄裁判」の時代ではない。裁判官個人も、国民大衆から監視され、その言動、及び一挙一動が追跡されている存在なのである。さて、小沢一郎は、検察審査会なるもので強制起訴されたということになっているが、実は、多くの人が予想したとおり、検察審査会は開かれていなかったらしい。ということは、11名の検察審査会メンバも、存在しないということである。非公開とか守秘義務とかを隠れ蓑に、検察審査会は、「検察や裁判所の意のままだ」ということが暴露されたということである。このまま終わるわけがない。


しかし、どういう判決になろうとも、小沢一郎元代表の動きは封じ込められたままだろう。小沢一郎という政治家の限界だと言わざるを得ない。最後の機会は一度あったのに何もしなかった。そこに限界を見た。