中岡慎太郎と龍馬暗殺#12

「汗血千里駒と再び福岡孝弟」

明治維新に入ったとはいえ、龍馬はさほど有名ではなかった。有名になったのは、明治十六年に土陽(どよう)新聞が、坂崎紫瀾(さかざき しらん)作『汗血千里駒(かんけつせんりのこま)』を掲載してからだと言われている。つまり、福岡孝弟に訊いてきた人達は、明治十六年以降なのではなかろかと考える。そして、その影響は、勝海舟が明治三十年に「龍馬の事は、すでに誰もが知っているので・・・」と語っている所から、この頃までには広く知れ渡っていたといえる。

私は後々になって、普通に考えれば、福岡に尋ねた内容とは、「実行者は誰か?」という質問だったのではないかと考えたりした。つまり、訊いてきた側は、黒幕を訊いたのではなく、単に「誰が暗殺を実行したのか?」を訊いてきたと考えたのだ。『汗血千里駒』は、新撰組近藤勇が実行者であるとしている。これは当然、読み物としてのものであるが、事実ではないとしても、実行者は新撰組という事で、福岡の話は終ってもよい筈である。
明治三年の今井信郎の裁判(取り調べたのは土佐側である。当時の警察機構は土佐が仕切っていた)は口外してはならず極秘扱いにされている。それ自体が不可解なのだが(当然、土佐藩黒幕であれば不可解ではない)、福岡はこの裁判が極秘であるから、「言っちゃいかん事になっとるんだ」としたのかとも考えた(にもかかわらず、その裁判の事は、勝海舟の耳にも入っている)。今井が佐々木の事を供述しているので、わざと隠す為、「佐々木只三郎・・・・・・そうじゃないんだ」と嘘を言ったのだと。
だが、話の流れからすると、「新撰組ですか?」と訊かれて「見廻組の佐々木只三郎ではない」とは、答えないだろう。当時からしても、実行者が見廻組ではないかと、知られていた状況があったという事なのか? 「見廻組の佐々木只三郎が実行者ですか?」と訊かれて、「佐々木只三郎・・・・・・そうじゃないんだ」と答えたのだろうか? これは、今井が斬ったからという認識があったのか? 否、裁判で今井は見張りをしていただけと供述している。近畿評論は明治33年だが・・・。これは違和感が無い。今現在の実行者候補として有力なのは、佐々木ではなく、桂隼之助であり、次に渡辺篤、次に今井伸郎である。当時としても、福岡が事実を知っていたのであれば、「佐々木只三郎・・・・・・、そうじゃないんだ」となるだろう。
恐らくではあるが、話の流れで福岡が「佐々木只三郎・・・・・・そうじゃないんだ」と言う事は、福岡に訊いてきた人々は、最初から実行者は訊かずに、「誰が計画したのか?」を、訊いているようである。その答えが「佐々木只三郎・・・・・・そうじゃないんだ」としたら、次は当然、京都守護職か、所司代、或いは幕府ですか? と訊かれた筈である。それが、「言っちゃいかん事になっとるんだ」という答えになったのだとしたら、その方が自然だと思えるのだが・・・。

「死の真相を、ある筋から知っていた」という事から、福岡孝弟はこの事件に関与していないようだが、土佐藩が関与していたのなら、実行した見廻組の者達は、庇わないといけなくなる。だが、メンバーの名前を伏せておき、「見廻組だ」と言っても、時系列からして福岡の晩年なら構わないように思われる。しかし、福岡は最期まで言わなかった。そして、真相というからには黒幕を訊かれたのだと考えていいようである。

ここで、主な人物と、関係ある事象の時系列を記してみる。

今井信郎兵部省口書」 明治3年2月22日 同年9月20日禁錮刑の判決。

山内容堂 明治5年6月21日没

土陽新聞が坂崎紫瀾作『汗血千里駒』を掲載。 明治16年

永井尚志 明治24年没 (幕府 大目付) 注釈:この人が黒幕という説もある。


榎本対馬 明治26年没 (幕府 目付)

明治30年勝海舟が書いた「追賛一話」では「龍馬のことは すでに誰もが知っているので・・・」と、海舟が語っている。

今井信郎実歴談」 明治33年(近畿評論)

手代木直右衛門 明治36~37年?没

日露戦争開戦直前の明治37年2月6日、皇后・美子の夢枕に龍馬が立ち、「私が海軍軍人を守護いたします」と語り、皇后はこの人物を知らなかったが、宮内大臣田中光顕(土佐勤王党出身で陸援隊幹部だった)が、龍馬の写真を見せたところ、皇后は間違いなくこの人物だと語った。事の真偽のほどは定かではないが、この話が全国紙に掲載されたため、坂本龍馬の評判がまた全国に広まる事となった。

谷干城の「近畿評論を駁(ばく)す」と題する演説 明治39年11月




福岡孝弟 大正8年

こうして見ると、容堂候は早くに亡くなっているので、別段、福岡が容堂を庇わなくてもいいように思える。が、それでも土佐藩自体が関係していたら、自ら喋る事も出来まい。タイミングは定かではないが、特に庇うべきは存命中であったかもしれない会津藩主と桑名藩主である。だとすると、あの事件を思い起こさなければならない。
寺田屋(襲撃)事件である。京都所司代指揮下の伏見奉行の捕り方百数十人(見廻組も一部参加している)が、龍馬を捕縛ないし捕殺しようとした事件だ。この事件は誰が指示したとか、指示した黒幕が誰だ等と語られはしない。龍馬は手配人だからという事で片付けられてしまうものだが(長州の三吉慎蔵を捕縛しに来たという説もあり)、果たして近江屋の事件と命令系統に差異があるのだろうか?
私はそれほど差異が無かったように思える。当然である。見廻組の上層部は京都所司代、更には京都守護職といわれているからである。
土佐藩上士の多くは佐幕派とみていい。薩摩や長州よりも、幕府側の人間を庇う事は理解できる。

慶応三年十月十八日付の龍馬の書簡を読むと、慶応三年十月上旬に龍馬が長崎から京都へ入京する以前の九月半ば、すでに龍馬が入京したとの間違った情報により、幕府の役人が土佐藩邸を訪れた、という話を薩摩の吉井幸輔より聞いたとある。
この時、土佐藩はどのような対応をしたのだろうか。この後に近江屋の事件が起こっている所を見ると、龍馬を正式な土佐藩士という認識のもと、幕府役人に説明していなかったと考えられる。やはり、あくまでも脱藩者という扱いをしたのではなかろうか。そして、ここからは私の妄想だが、この時の幕府役人の訪問により、未だ幕府側が龍馬を狙っていると土佐藩側は再認識して、これは利用できると思ったのかもしれないとの妄想が起こる。これはあくまでも妄想である。だが、土佐藩京都藩邸へ幕府役人の直接的な接触があった事は事実である。
話は逸れるが、この書簡に於いて、薩摩の吉井幸輔が、龍馬に二本松薩摩藩邸へ入るよう勧めている。書簡に書かれてある通り、幕府役人がうろついている為、街中にいては用心が悪いからと言っている。これに対して龍馬は「国表で不都合(脱藩の罪)があり、土佐屋敷には入れない。かといって薩摩屋敷に入れば土佐への嫌味となってしまう」と答えた事が、この書簡に書かれている。これを、西郷は知っていたのか、近江屋事件を知った時、怒髪天を衝く形相で後藤に対し「ヲイ! 後藤! 貴様が苦情を云はずに土佐屋敷へ入れて置いたなら、こんな事にはならないのだ。全体、土佐の奴等は薄情でいかん」と、怒鳴りつけられて、後藤は苦い顔をし、イヤ苦情を云った訳ではない、実はそこにその色々・・・、「何が色々だ、面白くも無い、如何にだ貴様も片腕を無くして落胆したろう。土佐、薩摩を尋ねても、外にあの位の人物は無いわ、・・・惜しい事をした」と、後藤を怒鳴りつけたという逸話もある。


(つづく)


詩集アフリカ と その言葉達