中岡慎太郎と龍馬暗殺#10

土佐藩黒幕説について」
土佐藩説が書かれる場合は、後藤象二郎を黒幕として挙げて置いて、作者本人が「それはないであろう」と、結論づけて終るパターンが大勢を占めている。大政奉還案を独り占めにしたいから、という事がそもそもの発端の説である。当然、龍馬関係の本を読み進めれば、龍馬と後藤の仲や、大政奉還案が龍馬から発せられた事を知る人間は多数であり、龍馬を殺したとて、独り占めは出来ないのが分かる。
中岡慎太郎犯人説にしても、後藤象二郎説にしても、浅学から来るものであるが、それを推し進めて、何故に容堂まで行かないのかが、いつも不思議であった。
ただし、これは中岡慎太郎暗殺が主目的となる場合、あながち馬鹿に出来ない説と成り得るのだが・・・。

つまり、後藤にしても福岡にしても、中岡を消したい理由は多々あるからである。
前述したように、中岡は「後藤を斬る」とまで言い放ち、福岡に対しては暗殺未遂まで起こしている。
大政奉還前後というよりも、元々この二人は公武合体論であり、武力倒幕派の中岡とは相容れない訳である。
ただ、後藤と福岡の黒幕説となると、所々、矛盾点が多くはなる。
何故、龍馬まで暗殺されたのか? 中岡を狙っていたのに、何故、龍馬の居る近江屋で、わざわざ事件は起こったのか? 中岡を暗殺したら、流石に龍馬との仲が険悪になる筈である。そして、中岡を消したとして、身の安全が保障されるかといっても、中岡以外の、例えば陸援隊や倒幕の志士達からの危険は避けられず、武力倒幕を阻止出来るかというと、すでに、薩摩も長州も動いているから、得策とはならない筈である。

もしも、中岡暗殺を見廻組に依頼したとして、見廻組が私怨等から、独断で龍馬を巻き込んだとしたら・・・、という考えも出来るが、確かにそれならば、当初は中岡が主目的であったとして、後藤も福岡も後味が悪くなるが、新撰組のせいにし、龍馬暗殺であったと、そして、中岡暗殺が主目的であるから、その存在を消し去ろうとするのも解る話である。
更に深読みすると、暗殺の当日、福岡も寺村左膳も、家を空けていたという事が、少々臭くなってくる。

今井信郎の「兵部省刑部省口書」に、ある符号点が記録されている。
「同日昼八ツ時(午後二時)頃、一同は龍馬の旅宿に向かったが、桂隼之助が佐々木唯三郎から申しつけられ、一足先に偽言をもって在否を探ったところ留守中とのことで、一同は東山周辺で時間を潰し、同夜五ツ時(午後8時)頃再び訪れた」
桂隼之助が、先に近江屋周辺を探った訳である。これには裏付けもある。
当日、午後三時頃と五時頃、龍馬が福岡邸を訪ねたのだが、その時、福岡の家人が龍馬に「先ほど、見知らぬ侍が、坂本さん(或いは才谷先生)は居るかと訪ねてきた」(←この証言が載っている本により、言い方はまちまちであるので、ニュアンスとして読んでもらいたい)と、龍馬に報告しているのである。
当初は、今井の証言通りだなと流していたのだが、これは考えると妙な話である。
いかに、会津藩配下の見廻組といえど、土佐藩の重役の家に、これから暗殺しようとする土佐の人間の在否を訪ねるものなのだろうかと。脱藩浪人だから関係ないと思ったのだろうか。
もしかしたら、福岡はやはり関係していて、それを知っている佐々木が桂に探らせた、否、情報を聞きに行かせた? とも深読み出来る。
だが、桂も事情を知らされておらず、「虚言をもって在否を探った」としているから、黒幕に虚言をしてまで会いに行く筈はないだろう。たまたま近くの福岡邸を訪ねただけに過ぎないかもしれない。
後藤や福岡が見廻組に依頼する事自体、辿る糸が無い。関係性が認められないのだが・・・。

いずれにしても、容堂を筆頭とした、土佐藩上士の誰か? とした方が、矛盾点は少なくなる。そう、あくまでも少なくなるだけではあるが。
当初、その容堂と会津藩の関係性も、よく分からなかったので、私としては「黒幕は判ったのだが、実行犯が判らない」と、逆の趣になってしまった。だが、その後は、様々な書物や情報を知るに付け、会津藩主の松平容保と容堂の接点などは、参預会議の成立などから、色々接点はあった事が分かり、後は発端を探すだけという事になった。
それに、直接、容堂と会津藩主の松平容保が会話をしなくとも、会津から、討幕軍である陸援隊の存在を聞き及んだ幕府側が、容堂を責め立てても、有り得る話となる。

幕末に於いての黒幕と実行犯は、意外と明かされているものが多く、中岡と龍馬暗殺のように、黒幕が不明なのは珍しいという研究家もいる。例えば先に書いた清川八郎の暗殺を指示したのは、諸説あれど老中の板倉 勝静(いたくら かつきよ)と言われている。
見廻組に命令を下すのは、京都所司代であり、その上が京都守護職会津藩となる訳だが、その守護職に命令を下すのは、幕府の大目付か目付になるとも云われている。であるから、勝海舟(麟太郎)の日記に於いて、海舟が当時の大目付である松平勘太郎から、今井裁判の事を聞いたが、松平勘太郎は「自分は知らない」と、不思議がったというエピソードも、勝の日記に付け加えられたのだろう。
大目付京都守護職の動きを知らなかったとは、実に不可解であるが、それだけこの事件は裏が根深いのだろうか。それとも、単に京都所司代の私怨に基づくものなのか? その所司代である桑名藩主、松平定敬にも関係がある手代木直右衛門(てしろぎ すぐえもん:なおえもん)の口伝がある。佐々木只三郎の実兄である。
次回は、手代木について書こうと思う。

(つづく)

詩集アフリカ と その言葉達 より
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