禁断の森  辺見庸

禁断の森       辺見庸

 

 

天が重い。のしかかってくる。

その下の鉛色の構造物のせいだろうか。たたずまいからして、まがまがしい。

見事に命名したものだ、「石棺」とは。古代エジプト以来、高貴な者を葬るのに石の棺を用いた。蓋の傾斜、変形直方体の輪郭が、日本で五世紀ごろ作られた長持ち形石棺に似てなくもない。

 高さ七十メートルのそのなかには、しかし、高貴な者が横たわっているわけでない。悲劇か、愚昧か、あるいはその両方を閉じこめている。

 一九八六年四月に事故を起こし、おびただしい放射性物質を噴きあげたチェルノブイリ原発四号機。放射能漏れを防ぐためにコンクリートの壁に覆われ、葬られている。

 このあたり、空気も時間も滞っている。視線を右に移動する。無人の、やはり灰色の建物。壁に事故前のスローガンが消えずにある。

「第十一次五ヵ年計画のために奮闘しよう!」

 小雪が舞っている。静かだ。

女性ガイドのイネッサは私事ばかり言う。何度もここに外国人を連れてきているからもう飽き飽きしている。

「夫は私より十五も年上なのよね」

 ほう、十五もね、と受け流して持参の放射線測定器のスイッチを入れたら、数字が一気に十五を超えて、計量限度の一九・九九九マイクロシーベルトに跳ねあがり、オーバーフロー・マークが赤く点灯した。どんなに低く見積もっても東京の二百五十倍以上。石棺のなかのものは、息絶えてはいないのだ。

 イネッサがつぶやく。

「ここですごく赤い花が咲くのよ、夏には」

いまは一面の雪。雪の原に赤い花を点々と心で描いてみる。悪寒がきた。門番らしい赤鼻の男が私をぼうっと見ている。防護服なんかつけていない。あれはただの綿入れだ。

 正午だ。石棺から五百メートルばかり離れた原発職員食堂で私は昼食の予定だ。食欲はわかないが、当局に食堂取材を認めさせたのは私なのだから、行かなくては。

 食堂は二階だ。窓がほぼ石棺の方角にもあるのを、さっき外から確かめた。

 階段下に「関門」があり男が座っている。金属探知器みたいな棒を衣服に当てて、机上の小箱が緑色に点灯すれば、入場可、赤なら昼食はおあずけ。被曝量でそれが決まる。限界量があらかじめ設定されているのだろう、数値は出ない。不可ならシャワーを浴びさせる由だが、赤なのに関門の男に目で合図して階段を上っていった労働者もいた。「信号無視」がままあるらしい。

 二階はすごい人いきれだ。四百人ほどが食券を手に調理場方向に列をなし、ポテト・スープ、カーシャ、ローストチキン、リンゴジュースの配給を待っていた。

 ふと気がついたら、石棺方向に窓がない。外からは見えたのに。あれは偽の窓だったのだ。というより、内側がコンクリートの壁で覆われていた。石棺から来る放射能を遮断するのが目的だろう。

放射能? ぜんぜん問題ないですよ。ここの食品はすべてキエフから運んでますから」

 原発三十キロ圏の野菜、果物などは絶対使っていない、と陽気な女性食堂長のリリヤが真っ白な手を大仰にふって言う。

「この建物もだいじょうぶ。事故のあと、二、三ヵ月かけて汚染除去作業をしたから」

 食堂長の「だいじょうぶ」を皮切りに、このあと私は各所で百回ほども「だいじょうぶ」を聞かされることになる。

 あの大惨事の際は、約一億キュリーの放射性物質が大気中に放出されたというではないか。ここはしかも四号機の目と鼻の先。ただの火事ならいざ知らず、ほんとうにだいじょうぶかしらん、とポテト・スープを飲めば、放射能に味、色、においでもあればいいのに、あるわけないから、きつめの塩味と、申しあげるほどのこともない月並みなイモの味がしただけだ。

 頭上で食堂長の声がする。

「だいじょうぶ。私も男たちもみんな元気よ」

 皆、盛んに食べている。現在運転中の一号炉、三号炉の労働者も、屈託なく、噛み、しゃぶり、呑みくだしている。それだけ見れば、パルプ工場や火力発電所の大食堂の風景と変わるところがない。昼食独特の倦怠感も漂う。安堵の表情すらある。

 この食堂でいま、もの食う人びとは、じつはすんでに失業するところだった。

 チェルノブイリ原発の全面閉鎖を九一年、ウクライナ最高会議が決めた。しかし、九三年十月、エネルギー不足などを理由に決定が取り消されて運転継続となり、関連施設を含め約九千人の首がいちおうつながった。放射能汚染、事故再発の危険を、エネルギー確保と大量失業回避の政策が強引に押し切ったわけだ。

 チェルノブイリで「食う」とは、なべてここに撞着した末の、余儀ない営みなのだ。ウクライナは未曾有の経済危機にあり、月間インフレ率は五〇パーセントを超す。食うとは、汚染のいかんを問う以前の、切迫した問題なのだ。と、こう考えると、眼前の風景が切なくも悲壮にも見えてくるのだ。

 食後に、食堂前の路上でそっと計測器に目をやった。一・〇マイクロシーベルト(一時間当たり)の値が出ている。東京の十数倍である。

 形をなさない不安を胸に、車を走らせたら「あれ、あれがオレンジ色の森」とガイドが指さす。が、なにもない。濃い緑の針葉樹の森が途切れ、薄く雪をかぶった平原に、やせ細った木々がまばらに数本、焼け跡のそれのようにかしぎ、あるいは倒れているだけだ。

 そこにかつて黒々と森があったという。

 事故後数年で、オレンジ色に立ち枯れ、消えてしまった。鮮やかな色の記憶だけ残して失われた、不可視の森なのだった。

 死んだ森の松の種子を採取して育てたという苗床を見た。

 石棺から三、四キロにある科学技術センター実験農場。葉がぐるぐるとねじくれたり、通常は同じ高さから五本の枝が派生する種類の松の幹から七、八本も枝が出たりの異常があった。

しかし、ここの放射能応用実験室のゲンナジ・ミシャルキン主任も「だいじょうぶ」派なのだった。髪の毛もまゆも真っ白なこの学者は、放射能値は事故当時の一パーセント以下だし「まあ、日光浴をたくさんするようなものだな。体にいいという面もある」などと、ギョッとするようなことを言い放つ。

 ただ一点「森のキノコとこのへんの魚は食わないほうがいい」と忠告した。人体に有害なセシウム137(半減期三〇・二年)が含まれているという。リンゴも問題あるが「魚一キロよりは、リンゴ一トン食うほうがまだましだな」と、なんとも表現が荒っぽい。

 では、少なくも千年は居住に適さないというこの禁断の地にあえて住まう農民たちは、すこぶる楽天的な学者でさえ言う「食うなかれ」を堅く守っているのだろうか。

 いや、いや、食べているのである。森のキノコも魚もリンゴも、ムシャムシャと。

共同通信社刊 もの食う人びと より)