国策を問う  沖縄と福島の40年  〔前編〕 (5)増幅する破局の予感 辺見庸ロング・インタビュー 沖縄タイムス

(5)増幅する破局の予感

 −辺見さんは震災前の2011年に執筆した「朝日ジャーナル」の原稿に、「大地震が起こる」「原発事故が起きる」「震災ビジネスがはやる」と言及していました。これはメディア状況を含めた破局の予感だったのですか。「何か切迫したものをこの10年以上ずっと感じてきた」とも言われていますが。

 辺見 もちろんそうですね。それは予言ではなくて予感なんだけれど。最新の本の中でも、朝日ジャーナルに掲載した文章をそのまま収録しています。訂正はしません。僕は破局の予感というのを今ももっている。またもっと大きな震災は来るだろうし、新しいネオファシズム的なもの、この勢いは止まらないだろうと思っています。あれは実際に原稿を書いたのは震災前の2011年2月なんだけれども、基本的な変更は何もない。むしろあの段階よりも、今はすべてにもっとペシミスティックになっています。

 −外形的に現象として表出する以前に、人々の内面に生じているもの、植え付けられているものを感じ取ったということでしょうか。それは、マスメディアあるいは国民全般に広くまん延しているものとして受け止めたのですか。

 辺見 特にメディアは現象の表層的な部分だけを報じることが非常に強くなった。年々歳々ひどくなっている。被災現場へ行ったら、報道とまるで違っていたりする。地獄の中で一生懸命に美談ばかりを探す。かつての戦争報道でもそうでした。美談を誇張する。だから、「トモダチ作戦」は格好の材料だった。ルース大使の被災地訪問なんかもテレビにとっては格好の材料だった。真相が沈んでく。それに対してちょっと待ってくれと、あれは米国の作戦じゃないか、賛美だけするのはおかしいよ、という声を逆に抑え込んでしまう。そういう物理的な働きというのが今、あるけれども、それはかつてのような権力による弾圧ではなくて、自分たちの中にある。僕は「自己内思想警察」とよく言うんですけどね。自分の中に飼っている思想警察みたいなものが、一生懸命に自分を規制する。これが今、メディアにまん延している大変な病気だと思うんです。

 −自己規制や萎縮は、マスメディアの宿命のようなところがあって、かつては戦争賛美にはしったこともあったわけですけれど、辺見さんが一線の記者のころと比較しても、この病巣の度合いは増していると認識していますか。

 辺見 うん、ひどくなっているね。それはマスメディアの本質だと思うけれども、いまはひどすぎる。例えば戦争が近づいてくる、キナ臭くなると、反戦という方向に向かうのではなくてメディア挙げて好戦的になっていく。ナショナルなもの、国家主義的なものに訴えていく。これはほとんど宿命のようなマスメディアの流れだった。それに例外を探すのはむしろ非常に難しいぐらいだった。今はまさにその渦中にあると思うんだ。これからファシズムが来るというのではなくて、今その渦中にあると思うんです。
 ところで、米軍が沖縄本島に上陸したのは、僕が生まれた翌年の昭和20(1945)年4月1日。そのときに高村光太郎という極めて有名な詩人が『琉球決戦』という詩を書いています。沖縄を考えるとき、これを僕はいつも思い出すんです。この詩で彼は、とにかく琉球決戦で沖縄を死守せよ、と書いている。昭和20年4月2日に高村がこの詩を書いたとき、硫黄島の日本軍は3月17日にすでに全滅しているわけですよ。米軍が沖縄本島に上陸したその時に誰が見ても日本軍は決定的に敗北している。もう負けるしかないという時期に書いているわけですね。

 〈神聖オモロ草子の国琉球、/つひに大東亜戦最大の決戦場となる。/敵は獅子の一撃を期して総力を集め、/この珠玉の島うるはしの山原谷茶、/万座毛の緑野、デイゴの花の紅に、/あらゆる暴力を傾け注がんずる。/琉球やまことに日本の頸動脈、/万事ここにかかり万端ここに経絡す。/琉球を守れ、琉球に於て勝て。/全日本の全日本人よ、/琉球のために全力をあげよ。/敵すでに犠牲を惜しまず、/これ吾が神機の到来なり。/全日本の全日本人よ、/起って琉球に血液を送れ。/ああ恩納ナビの末孫熱血の同胞等よ、/クバの葉かげに身を伏して/弾雨を凌ぎ兵火を抑へ、/猛然出でて賊敵を誅戮し盡せよ。〉『琉球決戦』

 詩というよりほとんどシュプレヒコールみたいなものなんだけどね。この詩を読んで涙流しながら死んでいった人も随分いる。

 −沖縄を「頸動脈」とする表現は、その本体は日本本土であり、頭脳は首都東京であるという認識からくるものだと思います。政府やマスメディアが沖縄の戦略的重要性を強調するときに使う「地理的優位性」や「抑止力」という言葉と重なります。日本全体の防衛のために沖縄が存在しているかのような物言いです。沖縄が住民の生活空間であることを度外視していますね。

 辺見 「国体護持」のためには沖縄を「捨て石」にしてでも戦おう、ということでしょう。ここで、沖縄と天皇制という問題も浮き彫りになる。これもいま改めて考えるべきテーマです。「琉球を守れ」って言ったって、琉球の人びと命を守れ、ということじゃない。天皇陛下のために戦って死ね、と言っているのです。沖縄でもニッポンのためでもない、天皇陛下のために死ねと言うのです。換言すれば、「国体護持」のために、ほかでもないニッポンから死を強要されたのが沖縄なのです。この記憶をいわゆる「本土」はもとより沖縄の人びとも薄めてはいないか僕は気になるのです。「沖縄=捨て石」観は今の気分ともどこかでつながる。無責任はいまにはじまったわけじゃない。高村光太郎はおそらく、よく知りもしないのに、沖縄で絶対戦えと詩に書いた。高村はこの詩を戦後ものすごく反省した。でもメディアはしていない。高村一人の責任にはできない、と思うんですね。
 ケビン・メアの件も、あの男一人のせいにすると日米関係を見誤るよ、と僕は言いたくなる。彼個人の人恪、識見の問題はもちろんあるけれども、日米関係はたかだかあの程度 の人間にやられている人だよと思えば、そら恐ろしくなる。彼は軍政意識まるだしの人間だったわけでね。言っちゃ悪いけど、無知ですよね。無知蒙昧な男に任せてね、沖縄の人はあれを許すのかって思いますね。
 あれは単純な舌禍事件ではなくて、彼のような異様な人物に代表されるアメリカ側の深層心理のあらわれだと思います。いわば占領軍意識。ゴーヤーもつくれない連中だっていう、下卑たコロニアルな蔑視。あれは日米関係というものを外交文書で言うのと違う、彼らのメンタルな面、ゆがみがよく出ていると思いましたね。それをちゃんと書かなければ駄目だと僕は思う。ケビン・メア事件は立派な特ダネです。でも今、事態は逆転していますね。彼の出版した本は売れて、メア氏はよかったってことになっている。あの報道を支えることが出来ない日本のジャーナリズムって一体何なんだって思うな。