釈尊の聖言 「見る眼」

  釈尊の聖言 
 又保護者を得るとは、富める人がこの商人は眼あり、仕事に熱心にして妻子を養う働きあり、利子を入るる力ありと知りて、金を貸すことなり。
 ビクらよ、かくの如く、ビクも又、見る眼あり、仕事に熱心にして保護者を得れば、法において非常なる進歩を得るなり。
 ビクの見る眼とは、これは苦、これは苦の因、これは苦の滅、これは苦の滅に至る道なりと実の如く知ることなり。 
   「見る眼」
 今や素人が株に投資する時代になった。だがどれほど見る眼があっての事であろうか。さて二千五百年前、利子を取って金融をする大商人たちが居たとは驚きである。その判定条件として、妻子を養うという、いわば人物考査までしていたとはさすがだ。脱法スレスレの買収類似者などとは、それこそ見る眼が違う。
 釈尊は何故、この見る眼を重視されるのであろうか。タバコも酒も止められないと、自分の未来が見えない、いや見ようとしないようで、どうして自己の存在価値を全現することが出来るだろうか。
 自分の未来、必ず死ぬという予測をし、自己全現において熱心であれと釈尊は言われる。それは自己を養うことでもある。何かの為にではなく、自己自身の為に生きよという事だ。その道は明らかにされている。それが保護者、導き手が必ず存在するという例話でもある。もっとも、こう豊かになっては見え難い事ではある。