原始仏教講座 第六講(最終講) その十六(完)

第六講 その十六
 九、正しき行いをなし、清浄の行いをなし、聖なる真理を見、ニバーナを実証する、これぞ最上の浄福なり。こうなると宗教専門家と同じになってきますね。聖なる真理、縁起という真理を見、清浄の行いというのは、もう男女関係、夫婦関係もしないということです。家庭に居るけれども奥さんとも肉体関係もしない、それはずーっとじゃなくてまあ時々はということです。ここに在家の信者のあり方、実際問題がある。時々にはというのは、お経に八斎日というのがある。月の内八日間はという。八日も俺は我慢できないというならば、それはそれでということになるわけで、かなり具体的ですよね。親切と言おうか。
 で、そういうふうでニバーナを実証する。ニバーナというのは解脱ですね。自ら体験する、自己証明をすると、これが出来ればもう悟りですから最上の幸せですね。
 十、世間の法に心動かされず、世の中はああ儲けたああ景気がどうというようなのが世間の法で、地位名誉財産愛欲そういうのが世間の法ですが、世の中がどうであろうが、そういうのに動かされない、で、うれいなく、そういうのに動かされていればいつも心配しなければならない。けがれなくして安らかなる、これぞ最上の浄福なり。まさにわが道を行くということです。
 十一、かくのごとくなす人は、いずこにあるも打ち破らるることなく、いずこに行くも幸い多し。これぞ最上の浄福なり」。どんな所に行っても、あるいはどういう状態になっても自分は動揺することが無い。信者として、もしそうなれば、それが最上の幸せである。そこまで行かなくとも、そういう方向に向って毎日宗教性を持った生き方をすれば、それは普通の人の幸せとは違う。普通の人の幸せを幸福というならば、これは幸福以上のものだから、浄福、きよらかな幸せというわけです。この浄福、この程度で我々信者が生きれば、これは出来ることですね。だからまさに実際的な教え、これがお釈迦様の仏教です。こういうふうに信者としてありたいと思います。(完)