釈尊の聖言 「恐れの来たる時」

 釈尊の聖言 
 恐れの来たるを待つが如き心は愚かなり。恐れ来たりなば、来たるに従いて征服なすを良しとす。われは歩きつつある時に恐れ来たりなば歩きつつ恐れを征服せり。坐れる時、立ち止まれる時、恐れ来たりなば、その時に征服なして、特に様子を変ゆることなかりき。
 「恐れの来たる時」
 仏け様が恐れを感じる、そんな変な話があろうか。一切を超越なさっておられるのが仏け様ではなかろうか。従来の考えから言うと確かにおかしい。人間にして仏け様であるという事は、かって考えられなかった。だが釈尊のこの生まの声を聞かねばならない。これが成道前かどうか、このアーガマ経に断わり文がないが、成道後のお言葉とみるべきであろう。
 仏け様の恐れがどの様な内容であるかも定かではないが、私共のような下らないものではないであろう。後の仏教ともなればブッダは理想化されるから、衆生をいかにして救い導かにおいての恐れ、と云った話になろうが、ここでは一宗教者、人間としての起こり得る様々な恐れ苦しみと受け取るべきであろう。おシャカ様もそうであったのか、それなら自分もいくらかでも見習わねばなるまいとなる。本当の恐れは前もっての思い患い。その時にその場で!心がけたい所だ。