釈尊の聖言 「清浄と古き業」

釈尊の聖言 
 アバヤよ。智者、見者、ブッダなる世尊は、人々を清めんが為、嘆ぎをこえんが為、苦悩を滅ぼさんが為、正しき知恵に達せんが為、覚りを現わさんが為に、三つのわずらいなき清浄を説きたまえり。 
 そはビクが戒をたもち、戒律によりて一身をおさえ、善き行いをなし、五官の戸口を守り、小さき罪にも恐れを見、熱心にはげむことと、初禅、二禅、三禅、四禅に入りて住することと、煩悩つきて覚りを現わすことなり。     
 このビクは、新しき業を作らず、古き業の苦を受けつつ、現世に報いある、このわずらいなき清浄によりて、苦しみ悲しみを滅ぼすなり。
(世尊カピラ城外にて病いにかかられ、間もなく治られてクシナーラをへてベーサーリーの大林講堂に留まれる時)
「清浄と古き業」
◎けがれに満ちた欲心や怒り、不満迷い、愚痴などの心が澄んでくるのが覚りであり、救われである。ここが仏教の目ざす目的である。そうした不浄の心は、貧病争などから拡大されてくる。といって貧病争そのもに取組んでいてはキリがない。その努力をしながらも、さらに根本である迷いの心、真理を知らない心を解決する方が早道でありかつ根本対策である。そのために、三つの清浄行が用意されてある。
◎努力(善にいそしみ、悪より遠ざかる)静思(ジェーナ・禅定)覚り。入り口、途中、到達(初中後)まさに仏教の要点。さらに開くのも、しぼるのも、その人の能力次第となる。
◎この道に入ったからといって、過去の行いの報いを逃げる事は出来ない。ここに甘やかしでない、人間の道がある。せめて苦の種をまかぬのが肝要。