仏教の本質・人間の本質

「仏教の本質・人間の本質」

仏教の本質
三宝聖典 第一部 第二十二項 三十人の青年
まずここで驚くことは、青年と呼ばれるほどの若い人達が、その奥さんを捨てて出家し、まことの求道の道に入ったということである。日本では出家ということを否定する空気がある。それは永年儒教の倫理が家庭と社会の主流であったからであろう。妻子をもうけ、仕事に精を出し。後継者を育てることが最高の道徳、よき生き方と考えられてきた。従って出家するということは、その倫理、道徳に反するという非難である。これは実は男性社会の論理である。男性としての性欲を満たすということが当然のこととしてその生活の根底になっている。
そのためだけでもないが、日本における出家は、社会的生活の道が閉ざされた場合にということが多かったようである。性欲というものは、男性か女性かということであり、悟り、救われということは、そうした性による差別、違いを通りこした境地である。それこそ真の人間になるということである。日本ではどうもこの点が明確にされていないんのではなかろうか。少なくとも、性欲に葛藤を感じたり、闘いを試みたりすることなくして、真の徹底が求められるわけはない。
 この場合、女を求めることと、女が持ち去った財宝を求めることとの二重の意味があるとしてもよかろう。そして本題は、己みずからを求めることとの比較。ここに仏教の特質があると云えよう。
事実を知ることと、その知ったいくつかの事実を比較して、どちらに価値があるかという判断をする。つまり、たゞ偉大な力、不思議な霊力などを信じて、その力による救われや守護を求めるといった信仰の方式とはまるで違うのである。事実認識、比較判断→決定決断、実行ということは、知性と心情と両方をフルに使わないことには出来ない。知的何何とにいったコトバが流行しているが、決断決行などには意志という感情が必要であり、事実認識や、比較の過程でも、そのことに関心、興味、根気などの感情、さらにはヒラメキの要素なども必要であるから、単に知性を使うというだけのものではない。

釈尊の仏教は、人間の本質の追究である。
「おのれみずからを求める」ということは、人間としての本質を学習し、その事実に合致して生きぬいてゆくということである。現代風に云えば、もっとも人間らしい人間として生きるということである。
 釈尊は、その人間らしく生きる道としての法を順々次第に解説される。法とは、人間としての本質解明の教えであり、人間を人間たらしめている真理、その真理に合致して生きる生き方という意味合いのものである。
 おのれを求めるということが、己の生き方を求めるということであることがはっきりしないと、足が地に着いた人間のものにはならない。救われ、覚り、あるいは、お守もり、といったコトバだけでゆくと、いわゆる観念、心情だけのものとなり易い。かっての昔は、生活が苦しく「生き方などといった比較判断など許されなかったから、せめて観念の世界で絶対を味わうということが、宗教的に意味があったとしてよかろう。しかし今日は、生活と、その生活をする人間主体の観念とが喰い違うということでは、人間として生きている意味を全うすることが出来ないのである。それはノイローゼの人が増えていることで分る。これは観念と生活が不一致であることによる精神の疲労である。

観念と生き方の一致
 人類の歴史とは、観念の未確立と生存のための生活I観念と生活の分離。つまり観念、人間としてあるべき姿を確立してゆくこと、そして、生活がそれについてゆけない悩み、いつかは、その二つを一致させようとする努力の歩み、これが人類の歴史と云ってよい。
 仏教は苦しみの解決である。その苦しみとは。生存のために働らく、つまりお金のためにだけ働らくといったことではない。生理的に死ぬといったことではない。よく宗教を永遠の生命を得ることだと考える人があるが、それは肉体的生命の延長、つまり欲望生活の延長なのであって、人間としての価値の問題ではないから、信仰の一種であっても宗教ではない。ましてや釈尊の仏教ではない。仏教は生あるものは死すという事実認識と、それを土台にして、どう生きるかという積極的な生き方の啓発なのである。決して現実の苦しみから逃避したり、現実の好転を願ったりするようなアイマイなものではない。人間としての本質、人間としての価値が分らない、生きている意味が分らないーということが仏教で問題にする苦なのである。
 それではその積極的生き方とは何かト人間の本質と、「かくあるべきである」と考えられるところの理想、この二つの一見、あい反するものを一致させる方向にある一切の努力である。その土台となるもの考えぬかれた観念である。われわれ凡人がそれを考え出せというのではない。釈尊がそれを考えぬかれ、深層意識を通して、判断され、自己と真理法とを完全一致の自己実現をなされたのである。
われわれはそのことを学習し、いく分なりともまねをし、自己実現をしてゆくことをもって、自分が生きている意味を発見、自己確認してゆくことなのである。
 単に生理的死の恐怖をのりこえるといったことではない。もし死の恐怖をさけるというのであれば、酒や麻薬、自殺ということでもなし得る。仏教は死の恐怖の意味を考えるのである。意味とは理知性によるものである。理知が完熟しないいことが仏教でいう苦であるから、ただ単に心情的に何かにおまかせする、おすがりするということでは、どうしても本当の苦は解決しない。
 死を恐れる苦しみ−心情的苦しみ
 死を通した生の意味が分らない苦しみ−理知的苦しみ
このように二つならべると分かり易いであろう。人間はいつもこの二つをいわば本質的に持っているのである。そこでこの二つを解決するということが、己みずからが分ったということになる。
 ではその対策は何か。心情的不安、苦悩を取り除くためには、理知を完熟させねばならない。その理知を進ませるためには、学習、道を習わねばならない。道を習おうとするには心情的不安、苦悩から何とか逃れたいという心情を強めねばならない。つまり、本当に苦しみを感じる鋭敏な心を持たないことには、理知の道には進めない。そしてこの理知を通して人間の本質を了解し。生き方をわきまえて実行してゆくことで、心情苦が平静化するのである。心情苦のおかげ、苦しみ悩むことのおかげで、理知性の目が開ける、何とも有難いことである。体験的に分ることであるが、自分を永い間苦しめてきたものが、実は自分を導いてくれたのであると感謝出来るようになる。逆境(苦しみ多い)からでないと宗教に入りにくいと云われるのは事実であろう。
 今日は、経済的に物的には豊かになり、いわゆる生存のための苦しみはほとんど感じられなくなった。病気以外には。そしてそのために、ただ物にうかれて生活している中に、物の方が主になり、何のために生きているのか意味が分らなくなる、というふうに今やなりつつある。かって三十人の青年たちが遊びほうけたのと同じと云ってよかろう。そしてそこに生きていることの「むなしさ」−無意味さを、どうにもごまかしようがなくなる。そんな時に、おすがり信仰とはまるで違った本物の宗教としての仏教が登場してくる。仏教とは、豊かさからしのびよってくるむなしさ、そこから始まるものである。単なる苦しみはいわば予備コースと云ってよかろう。昔も今も「真のむなしさ」を感じる人は少数である。この少数から多数へとひろげてゆくところに、仏教者の義務というか、生き方というものがある。まず、真のむなしさに気づかせる。ということ、ここに心情と理知性の高度な人間性があるということを啓蒙して下さったのが釈尊である。
 釈尊こそ、人間の最高度を自覚し、しかもそれを多くの人に正導伝達するために生きられた、まさに理想の人間である。ブッダという本来の意味はそこにある。人間として可能な限りの価値ある生き方をなされた釈尊、その万分の一でも学習し、まねをしてゆく、そうした生き方にふみ出したいものである。

三宝 第104号 1982年5月1日刊 田辺聖恵

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ 人気ブログランキングへ