世界唯一、政府行政当局お抱え「記者クラブ」 ジャーナリズム魂放棄、民主主義の敵 世相を斬る あいば達也

 この見出しのような話は、今さらの感もあるが、民主主義国家にとって非常に重要な構成要件である事実認識から、時々忘れない意味でも、コラムで言及しようと思う。昨日の原子力規制委員会の田中委員長の発言にしても、記者クラブ系メディアの扱い方は、ベタかナッシングだ。原子力行政の監視の要となる独立性が高い委員会のウォッチングは政治の介入を許さない存在だけに、メディアの監視が、政府行政機関に対する監視以上の重要性を帯びている。 

原子力規制委員会は以下のようにして発足に至った。
・ 2012年6月12日 - 民主、自民、公明の3党が、新たな原子力規制組織の設置法案をめぐる修正協議で、原発事故時に首相の指示権を、原発事故など緊急時の首相の指示権に「規制委員会の技術的、専門的判断を覆すことはできない」と、限定的に認めることで大筋合意。
・ 同年6月20日 - 原子力規制委員会設置法が参議院本会議で賛成多数で可 決・成立し、9月までに「原子力規制委員会」が発足することに。 
・ 同年6月20日 -日弁連が「原子力規制委員会設置法成立に対する会長声明」を発表、安全保障の追加など、複数の問題点を指摘。
・ 同年9月11日 -国会が閉会中のため、原子力規制委員会委員長ならびに委員を首相権限で任命。さらに、原子力規制委員会発足までの間、委員長ならびに委員の5名を内閣官房参与に任命。 
・ 同年9月19日 -正式に発足。 
≪注:原子力規制委員会環境省の外局として設置される機関である。同委員会は国家行政組織法3条2項に基づいて設置されるいわゆる三条委員会で、内閣からの独立性は高い。両議院の同意を得て内閣総理大臣が任命する。また、委員長はその任免を天皇が認証する認証官である。委員長及び委員の任期は5年で、再任されることができる。≫ 

 つまり、原子力規制委員会の決定に関し、国会・政府行政が口先介入する事を原則禁じている機関なので、委員長及び委員の選定は慎重な上にも慎重であるべきなのだが、クーデター民主党政権だけにやることが凄い。国会を閉会し、仕方ないから内閣総理大臣権限で決めてしまう蛮行で、天皇認証官の委員長を決めたのである。その委員長が「主義主張のあるジャーナリストは排除」と発言した事を追求するのは、ジャーナリストの基本中の基本だ。筆者は、クーデター民主党政権が、ドサクサ紛れに“何でもかんでも勝手に決めちゃう政治”をする事は現在の日本の法律では許される範囲である以上、何をか況やの気分だが、自分達にも火の粉がかからないとも限らない“憲法抵触発言”を見逃し、何事もなきが如き風情でいられる日本のマスメディアは、あまりにも愚劣だ。 

 このマスメディアが“決められる政治キャンペーン”の論陣を張り、野田佳彦ファシズム決断を煽り、多々容認したのだから、マスメディアが実は民主主義にとって一番の敵であるとも言える。この病巣の元凶は、各マスメディアの立ち位置の違いとかと云う問題ではなく、マスメディアの取材のあり方に起因する点、異論を挟む余地はない。それが明治以来続く「記者クラブ」の存在なのである。この取材形態を排除しない限り、我が国の民主主義そのものが、根づくことは永遠にないと言っても過言ではない。世界広しと謂えども、我が国と韓国の二国にしか存在しなかった。しかし、韓国は2003年に記者クラブ制度を廃止しているので、唯一無二は日本だけである。笑っちゃうようなマスメディアの取材態勢なのだが、所属するマスメディアの連中は悪びれる様子一つない。ジャーナリズムヘッタくれの議論を口にするなど、千年早いのである。あきらかに“世界遺産”への登録が可能と考える。蛇足にもう一つ世界遺産に加えられるのが、日本の検察官の地位である。これを話すと長くなるので、いずれと云う事にする。 

 民主主義において、言論の自由が保証され、報道の自由が保証されていると云うことは、言論報道の自由の保証に対して、法理的に期待すべきものがあると云うことだ。その期待とは何かといえば、粗っぽく表現すれば、権力の監視である。マスメディアに、自社の自説を語って欲しいと云うよりも、腐敗する事が摂理である“権力”への監視の目の意識こそが求められている。しかし、現実の日本のマスメディアは「記者クラブ」と云う、政府行政の“情報排出装置”と迎合し、何ら疑問を持たない組織になってしまった。今さら彼らにジャーナリスト魂を取り戻せ、と言っても馬の耳に念仏だろう。 

 ネットメディアも奮戦はしているが、まだまだ対抗しうる勢力になったとは言えない。記者クラブから発信される情報は、質の吟味なく世間に垂れ流され、それが質の善し悪しに関係なく、国中を駆け巡るのだから、余程注意深い人間でなければ騙されるのが普通である。仮に、一人の人間が根掘り葉掘り、ある問題を追及しても、「記者クラブ」が発信する“情報量”に凌駕されてしまうのである。やはり、この制度が成り立たない国家の枠組みを作る根性を政治家が持たない事には、廃止の可能性は殆どないのだろう。 

 単に、記者会見をフリーにするとか、その程度の歯止めでは絆創膏を貼る程度のことで、問題の解決には至らない。現在の電通傀儡通信社・時事通信共同通信が良いか悪いか別にして、独立通信社2社程度が政府行政関連の情報を取材する形を取るべきなのだろう。その2社が、各行政機関に常駐し、茶を飲み、電話ファックスPCを駆使できるスペースを提供する事は、一種行政機関のマスメディアに対する饗応であり、広い意味の役人の汚職と言えるだろう。その政策は、あくまで搦め手にならざるを得ないが、応分の賃料の徴収や経費の負担を担保する政策であり、電波オークションなども搦め手となるのだろう。 

 根本的には、ジャーナリズムと云うものは、権力と国民との中間に位置し、どちらかと言えば、権力の監視をし、政策や条例、不正などを国民に知らせる責務を持つものである。故に、彼らに圧倒的情報量で、世論を左右する“ペンは剣よりも強し”を与えているわけで、国民に対する凶器として、“ペン”を与えているわけではない。ブッシュが引き起こした“イラク戦争”の発端となったニューヨーク・タイムズの「イラク大量破壊兵器核兵器)を隠し持つ」と云う報道であったが、書いた記者はチェイニー副大統領の側近とねんごろな関係にあり、日常“美味しい情報”を入手していた。 

 その側近がリークのかたちで、その記者に“特ダネ”として齎した“大量破壊兵器”が捏造情報だったのである。たかが一記者の権力側と癒着した関係が、アメリカを、そして世界をイラク戦争に巻き込んだと云うのだから、権力に近づくジャーナリズムが如何に危険であるかを、象徴するような出来事である。それに引き換え、我が国のジャーナリストは「記者クラブ」に囲い込まれ、全員が当局のリーク報道の餌を食んで生きている。その弊害は、想像を絶するものだろう。

 我が国のジャーナリストの多くは、新聞社・テレビ局に新入社員で入社、その後「記者クラブ」に配属され、終身雇用の身分保障と引きかえに、ジャーナリスト魂とは、当局の情報を発表通り世間に垂れ流せば事足りると云う、精神に変えられていくわけだ。 時に、この終身雇用による身分保障の替わりに、ジャーナリスト魂を発揮したい人間は、独立を指向するのだが、その後の道は、経済的に何ら裏付けない世界に飛び込む事になる。飛び出すような不埒モノが出ない為に、マスメディア各社は、年功序列で報酬を支給し、30歳程度で1000万円近い年収を保証する。デスクや論説スタッフになった時には、年収3~5000万円が待ち受ける。

 当局が用意する「記者クラブ制度」に齧りついていれば、そのような身分保障を与える事が、マスメディアの戦力と云うより、霞が関官僚らが明治以来、“欧米に追いつき、追い越せ”の掛け声で作られた、国家一丸となり欧米列強に立ち向かう勇ましき「記者クラブ体制」だったのである。国家一丸となり欧米列強に立ち向かう必要性がなくなった現在も、この制度が残っているところに問題があるのだが、政府行政当局にとって、非常に都合が良いからであり、マスメディアの側も、合理的に紙面を埋める事が可能と云う経済合理性で、ジャーナリズムが利用されている。 

 筆者が、こんな事を長々と語らなくてもかなりの国民が、東京地検特捜部が引き起こした、小沢一郎陸山会事件や福島原発事故報道等々の真実を、ネットメディアや雑誌を通して知る機会が増えた点で光明は見えているが、充分と云うレベルには達していない。やはり、強いリーダーシップを持って、「記者クラブ」と云う制度が成立不可能な仕組みづくりが必要なのだろう。マスメディアが自ら、それを放棄することは絶対にない。また、彼らはそのような振舞いを「報道への挑戦だ、報道の自由の侵害だ」等と云うだろうが、「君らが報道を独占する事で、言論の自由が奪われる」と云う反論で充分だ。記者クラブが排他的な性格を持つ以上、彼らに抗弁権はない!