巨大地震の衝撃・日本よ! 作家・辺見庸さん

巨大地震の衝撃・日本よ! 作家・辺見庸さん

 <この国はどこへ行こうとしているのか>

 ◇「国難」の言葉に危うさ--辺見庸さん(66)

 わたしの死者ひとりびとりの肺に

 ことなる それだけの歌をあてがえ

 死者の唇ひとつひとつに

 他とことなる それだけしかないことばを吸わせよ

 類化しない 統べない かれやかのじょだけのことばを

(「死者にことばをあてがえ」より)

 東日本大震災発生後、辺見庸さんが「文学界」に発表した詩編「眼の海--わたしの死者たちに」。被災地の宮城県石巻市に生を受けた作家がつむいだ言葉は、批評を拒むほどの緊張感に満ち、海を、がれきの街をはい回る。

 だが--作家は明らかにいら立っていた。

 「僕は記者として、海外の戦場に立ったし、阪神大震災も取材しました。でもね、こうして馬齢を重ねて、今の日本の空気が一番不快だな。テレビ、新聞、そして、それらに影響された社会。飛び交う言葉が、ほとんどリアリティー(現実味)を失ってしまっている。違いますか」

 こちらも身構え、先を促す。

 「復興に向けて、被災地は一丸になっている、被災者は前向きに頑張っている……そんな美談まがいの情報が、あまりに多い。古里に電話をして聞くと、全然違う。この夏、クーラーもないまま過ごした避難所もあった。現実はメディアが描くより、はるかに悲惨だし、一般の人たちの方が絶望している」

 先進諸国の独善的な戦争に異議を申し立て、深い思索に裏打ちされた文章を世に問うてきた。7年前、脳出血で倒れたが、左手だけでキーをたたき、執筆を続けている。

 「国難って言葉、好きですか?」。唐突に問われた。言葉を探しあぐねていると、「僕は大嫌いだな」とたたみかけてきた。

 「国難に対処することが最優先となり、個人の行動や内心の自由が、どんどん束縛されていないか。『手に手を取り合って頑張ろう』という空気は、それ自体は善意だとしても、社会全体を変な方へと向かわせないか」

 例えば米軍。「トモダチ作戦」によって被災地の復旧が進んだことは間違いない。だが、「日米同盟の意義」が声高に叫ばれる一方で、沖縄の普天間飛行場移設問題がかすむことはなかったか。

 「言葉の死」は薄っぺらなスローガンから始まる。言葉が死ねば、自由も個人の尊厳もないがしろにされる。辺見さんのいら立ちは募るばかりだ。

 「誰もが『3・11』を分かったように思っているが、世界史における位置づけや『3・11』が暴いたものの深さ、大きさは、とらえきれていないのではないか」

 そんなもどかしさが震災後はつきまとったという。もっとカメラを後ろに引いて、歴史的、文明論的な視点に立って、この大災害を分析する必要があるのではないか。辺見さんは思考を組み立てては壊し、一つの仮説にたどりついた。

 「技術革新を信じる進歩の概念、人権、経済合理主義……近現代の骨格をなしてきた思想は終わったのではないか。『3・11』は、そのメルクマール(指標)になりうる」

 辺見さんが続ける。

 「近代科学の頂点をなすのが核技術ですが、これは核兵器原子力潜水艦の動力に源流がある。しかし、その後は新聞も含めて『平和利用もあり得る』という論調になってしまった。ところが今回の福島第1原発事故で、軍事利用と平和利用という二元論で考え得る代物なのか、危うくなってしまったのです」

 そういえば、この国は既に「核」についての確固たる方針を持っていたはずだ。

 「もし核兵器原発という二つの分野の次元が違わないのならば、非核三原則核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず)の対象に原発を加えてもいいんじゃないか。もちろん、これも仮説に過ぎない。でも、今はそこまで考えなきゃいけない時期だと僕は思っているんです」

 <科学、これこそ新興の貴族だ! 進歩だ。世界は前進する! どうして後戻りしないんだ?>

 死後120年を迎えたフランスの詩人、アルチュール・ランボーの「地獄の季節」(鈴村和成訳)の一節である。

 「前進に前進を続け、その果ての今、僕らは崖っぷちに立っている。がれきの光景を思い浮かべながら読むと、近現代の終わりを強く感じます」と辺見さんは注目する。

 「崖っぷち」にたたずめば、何が見えるのか。

 「欧州では70年代、人間社会の『適正な発展段階』は、どの程度かということが議論された。当時、よく読まれたのがオーストリア出身の経済学者、レオポルド・コールの著書です。コールは『物事が巨大化すれば、必ず事故が起こる』と予言していた。少なくとも先進国においては、コールの言う『過剰発展社会』を作ってしまったと言えるのではないでしょうか」

 「過剰発展社会」--その最たるものが原発だったというのか。

 断崖絶壁に立っているなら戻らざるを得ない。果たして間に合うのだろうか。

 「近現代の流れには、ある種の『慣性の法則』が働いているので、恐らくもう飛び降りつつあるのでしょう。原発核兵器にも近い将来、変化があるとは思えない。9・11(米同時多発テロ)、3・11、最近ではノルウェー連続テロ事件……過去にはあり得ないと考えられた事件が続いていますが、今後も『過剰発展社会』を維持したまま、規模にせよ発想にせよ、またもインポシブル(あり得ない)な事件が起こるのでしょう」

 作家は、こうも語った。

 「我々自身の内面が決壊しつつある。生きて行く足場を失ったという思いは3・11の前からありました。私は物書きだから、内面をどう再構築すればいいか、どのような内面をよりどころに生きればいいか。そのことを考えなければならないし、それを書こうと思います……」

 「ならば、私たち一人一人が内面を再構築するすべは……」と尋ねかけると、鋭い目で記者を制した。

 「そんなご大層なことを言わなくたって、もうやっている人はやっている」。突き放すような言い方だった。人間は皆、違う。それをひとくくりにする発想こそが愚劣であって、まず、それぞれが考え抜くしかないのだ--。

 辺見さんの希望のありかを垣間見たように思った。【宮田哲】

  毎日新聞 2011年9月2日 東京夕刊