『近現代 問 い直す指標に』 日経新聞8・31夕刊で辺見庸氏のインタビュー

一昨日(8月31日)の日経夕刊に,宮城県石巻出身の作家・詩人,辺見庸さんのインタビュー記事が載っていました。
とても共感して,しかも考えさせられる内容だったので,皆さんにシェアしますね。

アウシュビッツ以降、詩を書くことは野蛮である」と言ったドイツの哲学者アドルノの引用は強烈でした。
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日経新聞夕刊 2011年(平成23年)8月31日(水曜日)
辺見庸さん (へんみ・よう)1944年宮城県石巻市生まれ。共同通信社の記者時代に「自動起床装置」(91年)で芥川賞。他に「もの食う人びと」「水の透視画法」など。
今年、初の詩文集「生首」で中原中也賞

『近現代 問い直す指標に』
地震津波が破壊し、奪ったのは物と人命だけではない。人の内面もまた壊れたと作家の辺見庸さんはいう。自身の心の廃虚に立ち、新たな言葉を探す苦闘が続く。

3・11によって破壊され、殿損されたものとは何だったのか。
実は我々が生きる上で無意識にスタンダードとしてきた理(ことわり)、事理だったと思う。
津波にしろ原発事故にしろ、こんな風景はあり得ないと信じてきたこと。価値観。サルトルであれハイデガーであれモラルのひな型にしてきた思想。
それらが全て無効に見えてきた。

文学的表現をすれば「内面の決壊」が起きた。相当に深刻なレベルで。
僕の場合、そのことは絶望的に書けないという状況を生んでいる。
故郷がやられたからではない。あの巨大な破壊と炉心溶融の後に、以前と同じ言葉、文法、発想は使えないという気持ちが非常に強い。
書くそばから消して、死産ばかりだ。
出てくる言葉が3・11前と同じであることに、どうしても納得がいかない。

■「アウシュビッツ以降、詩を書くことは野蛮である」。
ドイツの哲学者アドルノが1949年に発した言葉と,改めて向き合ったという。
アドルノアウシュビッツで起きたこと(大量虐殺)を人間の内面、あるいは文化から総体として見直さねばならないと言いたかったのだと思う。
同じように、我々ももっとあるべき深みで3・11をとらえ直す必要がある。
死者が何万人、放射能が何ベクレルといった数値の説明に事態を帰結させるのでなく、文化論的にとらえ直す試みがあっていい。

僕は直感的に、近代とその続きとしてある現代、つまり近現代が3・11によって終焉した,という試論はありうると思う。
少なくとも3・11を、近代を支えてきた思想を問い直す歴史的メルクマール(指標)とする発想は必要だ。
進歩思想、科学的合理主義、人権、国民国家。そんなものが果たしてがれきと放射能の中にあっただろうか。

原発の問題は象徴的だ。
核技術は紛れもなく近代のテクノロジーの頂点をなす存在だ。
もとは軍事技術として生まれた。
にもかかわらず、平和利用が可能だという言説はいつ、どこから出てきたのか。
文化人ですら支持してきたその暗黙の了解が崩れたとき、我々は核をどうするのか。

■震災後の文学、文化を取り巻く状況には、ある種の危うさ、いかがわしさを感じると明かす。
いま、詩に限らず、表現の多くが震災を大変な悲劇としてとらえ、悼むことに多大なエネルギーを費やしている。無理からぬ成り行きだろうが、僕は薄気味悪さを覚える。
坂口安吾は空襲の破壊の美を書いた。中山啓という詩人は関東大震災で2つに折れたビルの様子を「愉快」だとよんだ。
悼み、悲しむ姿勢とは対極にある、そのような言葉を、今日受けいれる自由な空気があるか。書こうとする作家や詩人の存在があるか。恐らくない。そのことに危うさを感じる。

国難が叫ばれ、連携や絆、地域、国家を重んじる時代には、往々にして、特異な個人が排除される。それだけはあってはならない。いま必要なのは手に手をとって「上を向いて歩こう」を歌うことではない。
個人がありていに話す空間、新しい知をつくることが希望に至る一筋の道だ。
(聞き手は文化部 白木緑)

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